しあわせのたまご
夢の話だ、臨也は黒い卵を抱いていた。
本物の卵という意味ではない。卵の形をした何か、だろうか。それはとても気まぐれに熱を持ち、熱くて持てない日は足元において、適温のときは拾い上げて、冷たいときはポケットに入れておく。
ざらざらとしていてあまり触り心地のよいものではなかったし、どうも見てくれも良くないようだったので、自然と、表には出さずしまいこむようになった。
捨てることはできない。
それだけはよく分かっていた。
臨也はその夢の中で、一筋の道を歩いていた。それは大きな道のようでいて、綱渡りのように細い時もあり、複雑に曲がりくねってると思えば、気まぐれにまっすぐに伸びる。臨也は常に、一歩を踏み出すときに用意周到に用意し、いつ不意にその足元が崩れても逃げることが出来るよう、予防線を張り巡らして歩いていた。
途中、誰かとすれ違い、交差し、あるいはまたぶつかることも何度かあった。夢の話だ、けれども登場人物は現実に出会ったことのある人間に限定される。
何度か天敵とぶつかりあった。しかしここは夢なので、現実の様に殴り合うことはせず、ただ消えろと念じながら睨み合うにとどめた。天敵もまた、その腕に卵を抱いていて、それが壊れやすいものだと知っていた。天敵の卵は臨也のものより大きく、そしてまた鮮やかな赤や、緑や、青、その時々によってめまぐるしく変わる色彩を持っていた。
臨也は疑問だった。天敵はなぜ、卵の色をいつも変えているのだろうか。臨也の卵は最初、たしかに白かった。まっさらの白は、しかしいつの間にか黒く染まりきり、今では他の色など欠片も混じらない。
どうしてお前は化物のくせに、そんなふうに鮮やかなものを持っているのだ?何度か問いかけたくて口を開いたが、天敵はいつもその質問を投げつける前に、誰かに呼ばれて道をそれてゆくのだった。
誰かの道に、沿って歩く。
なんと窮屈なことだろう、と臨也は思う。どうしてむりやり道を曲げてまで、他人に合わせて歩くというのか、心底理解出来ない。そうして臨也はまた、一人きりの道を歩み始める。
何人もの人間とすれ違う。交差する。時折手を引いてやることもあれば、突き飛ばすこともある。好んで臨也の後ろを付いてくる人間も居る。愉快愉快と、臨也は笑う。
ある時、利用価値の有りそうな少年とすれ違った。少年は一抱え程の卵を、鮮やかで美しい黄色に染めていた。その少年は大勢を引き連れていて、その誰もが似通った黄色の卵を抱いていた。
臨也はその少年に声をかけて、面白そうなので、少し一緒に歩いてみることにした。言葉巧みに誘導し、少年を臨也の道に沿わせる。丁寧に道を示してやると、少年の黄色の卵はますます鮮やかになった。
「君のそれは、冷たいかい、温かいのかい」
臨也は問う。臨也の黒い卵は、未だ手のひらサイズから大きくならず、そうして温度も全く安定しなかった。
「温かいですよ、ずっと温かかった」
少年は無邪気に答えた。まるでそれが当然で正解だとでも言う様なその台詞に、臨也は心の奥が冷え込むのを感じる。
そうかこの少年は、ずっと太陽の下に居たのか。だから温かいのか、妬ましいな、ウザったいな。
湧き上がった感情は熱く、そうして握りしめた手のひらサイズの卵は、感情を吸い上げるように少しだけ大きくなった。何もせずして愛される人間は居る。それはとても残酷で、なおかつ痛いほどに真実だった。
臨也は少年の卵を割ってみたくなった。その鮮やかな黄色、陽のもとで温まった温度を砕いたら、少年はどれほどの喪失を味わうのだろうかと考えた。泣くだろうか、叫ぶだろうか、崩れ落ちて臨也を恨むだろうか。どれになってもつまらないけれど、少年がただ幸せそうにその卵をかかえていることが許せなかった。
ためらいはない。
臨也は少年に微笑みかけながら、丁寧に道を示しながら、ただ、道のない空間へと少年を突き飛ばせばよかった。
悲鳴を上げて転んだ少年の足元で、取り落とされた黄色の卵はカツンと音を立て、そうして大きな亀裂を走らせた。けれどもそれは割れはせず、踏み潰そうかと臨也が迷ううちに、少年が抱きよせて隠してしまった。
なんだ、つまらない。
もっと粉々にしてやりたかったのに、と臨也は思う。いいさ、まだチャンスはある。もう少年は昔歩いていた道には決して戻れないのだから。少年が歩いていた道は、臨也が誘導したところからは酷く遠かった。
臨也はまた一人で歩き始める。少年は臨也の見える範囲で、懸命に臨也を遠ざけようともがくように歩き続ける。いつまでそうやって目を背けていられるだろうか、見ものだと臨也は思った。引き連れていた大勢の仲間をなくした少年は、あまりに脆く、またとても弱々しかった。
もっと追い詰められればいいのに、そうしてその卵を踏みつけてやろう。そう思った臨也の期待は、しかしすぐに裏切られることとなる。
少年の道の先に、新たな光が宿った。
臨也は何が起こるのかとその光景を見守る。傷ついた卵を抱えて、黄色の少年は黒髪の少年に縋りつく。黒髪の少年はその童顔を不思議そうにかしげながら、黄色の少年をあやすように撫でた。
まるで親子の対面のようなその光景。
黄色の卵のヒビ割れは、その黒髪の少年との接触によってゆっくりと塞がってゆく。なんて不愉快な光景だろうかと、臨也は舌打ちをした。
せっかくそこまで傷つけたのに、余計なことをするな。
文句を言いたくて、けれども正面からそう言うのもつまらない。二人の少年たちは常に一緒に居るということでは無かったので、臨也はまた気まぐれに道を変えた。
黒髪のほうの少年に、目的を変える。黄色の少年がいない時を見計らって慎重に接触を果たす。人目をかいくぐるスリルがほんの少し楽しく、そしてまた何も知らない人間の、無警戒の眼差しが愉快だった。
ざまあみろ、と臨也は唇の端を吊り上げる。
ざまあみろ、君は巻き添えをくらって傷つくことになる。ああでも、君の通ってきた道もずいぶんと面白いね。もしかして君で遊んだほうが楽しいかな?
臨也の歪んだ思想は、もはや少年の卵を砕くことに全力で向かおうとしていた。慎重に慎重に距離を詰めて、あってないような警戒を解き、信頼されることなど容易い。
もはや黄色の少年のことはどこかに忘れ去っていた。臨也のターゲットは完全に、目の前の黒髪の少年に移る。彼は人見知りをするほうなのか、なかなか自分の卵を表にだそうとしなかったので、臨也は自分の卵を先に見せてやることにした。
「俺のこれは、変なんだ。熱かったり冷たかったり、ざらざらしたりつるつるしたり、毎日違う」
そうして改めて見ると、卵は掌に少し余るくらいにまでは大きくなっていた。もしかして自分の卵も、あの天敵や黄色の少年と同じくらいにはなるのだろうか、と臨也が考えていると、黒髪の少年が小さく、おんなじですね、とつぶやいた。
「おんなじ?何が?」
「僕のこれと、あなたのそれは、同じ大きさですね」
少年が、大切そうに内ポケットから取り出したのは、いつか臨也が確かに持っていたような、純白の。
「全然、大きくならないんです」
「……おんなじだね、俺のも、大きくならない」
少年の卵は、何の色にも染まらずにそこにあって。
本物の卵という意味ではない。卵の形をした何か、だろうか。それはとても気まぐれに熱を持ち、熱くて持てない日は足元において、適温のときは拾い上げて、冷たいときはポケットに入れておく。
ざらざらとしていてあまり触り心地のよいものではなかったし、どうも見てくれも良くないようだったので、自然と、表には出さずしまいこむようになった。
捨てることはできない。
それだけはよく分かっていた。
臨也はその夢の中で、一筋の道を歩いていた。それは大きな道のようでいて、綱渡りのように細い時もあり、複雑に曲がりくねってると思えば、気まぐれにまっすぐに伸びる。臨也は常に、一歩を踏み出すときに用意周到に用意し、いつ不意にその足元が崩れても逃げることが出来るよう、予防線を張り巡らして歩いていた。
途中、誰かとすれ違い、交差し、あるいはまたぶつかることも何度かあった。夢の話だ、けれども登場人物は現実に出会ったことのある人間に限定される。
何度か天敵とぶつかりあった。しかしここは夢なので、現実の様に殴り合うことはせず、ただ消えろと念じながら睨み合うにとどめた。天敵もまた、その腕に卵を抱いていて、それが壊れやすいものだと知っていた。天敵の卵は臨也のものより大きく、そしてまた鮮やかな赤や、緑や、青、その時々によってめまぐるしく変わる色彩を持っていた。
臨也は疑問だった。天敵はなぜ、卵の色をいつも変えているのだろうか。臨也の卵は最初、たしかに白かった。まっさらの白は、しかしいつの間にか黒く染まりきり、今では他の色など欠片も混じらない。
どうしてお前は化物のくせに、そんなふうに鮮やかなものを持っているのだ?何度か問いかけたくて口を開いたが、天敵はいつもその質問を投げつける前に、誰かに呼ばれて道をそれてゆくのだった。
誰かの道に、沿って歩く。
なんと窮屈なことだろう、と臨也は思う。どうしてむりやり道を曲げてまで、他人に合わせて歩くというのか、心底理解出来ない。そうして臨也はまた、一人きりの道を歩み始める。
何人もの人間とすれ違う。交差する。時折手を引いてやることもあれば、突き飛ばすこともある。好んで臨也の後ろを付いてくる人間も居る。愉快愉快と、臨也は笑う。
ある時、利用価値の有りそうな少年とすれ違った。少年は一抱え程の卵を、鮮やかで美しい黄色に染めていた。その少年は大勢を引き連れていて、その誰もが似通った黄色の卵を抱いていた。
臨也はその少年に声をかけて、面白そうなので、少し一緒に歩いてみることにした。言葉巧みに誘導し、少年を臨也の道に沿わせる。丁寧に道を示してやると、少年の黄色の卵はますます鮮やかになった。
「君のそれは、冷たいかい、温かいのかい」
臨也は問う。臨也の黒い卵は、未だ手のひらサイズから大きくならず、そうして温度も全く安定しなかった。
「温かいですよ、ずっと温かかった」
少年は無邪気に答えた。まるでそれが当然で正解だとでも言う様なその台詞に、臨也は心の奥が冷え込むのを感じる。
そうかこの少年は、ずっと太陽の下に居たのか。だから温かいのか、妬ましいな、ウザったいな。
湧き上がった感情は熱く、そうして握りしめた手のひらサイズの卵は、感情を吸い上げるように少しだけ大きくなった。何もせずして愛される人間は居る。それはとても残酷で、なおかつ痛いほどに真実だった。
臨也は少年の卵を割ってみたくなった。その鮮やかな黄色、陽のもとで温まった温度を砕いたら、少年はどれほどの喪失を味わうのだろうかと考えた。泣くだろうか、叫ぶだろうか、崩れ落ちて臨也を恨むだろうか。どれになってもつまらないけれど、少年がただ幸せそうにその卵をかかえていることが許せなかった。
ためらいはない。
臨也は少年に微笑みかけながら、丁寧に道を示しながら、ただ、道のない空間へと少年を突き飛ばせばよかった。
悲鳴を上げて転んだ少年の足元で、取り落とされた黄色の卵はカツンと音を立て、そうして大きな亀裂を走らせた。けれどもそれは割れはせず、踏み潰そうかと臨也が迷ううちに、少年が抱きよせて隠してしまった。
なんだ、つまらない。
もっと粉々にしてやりたかったのに、と臨也は思う。いいさ、まだチャンスはある。もう少年は昔歩いていた道には決して戻れないのだから。少年が歩いていた道は、臨也が誘導したところからは酷く遠かった。
臨也はまた一人で歩き始める。少年は臨也の見える範囲で、懸命に臨也を遠ざけようともがくように歩き続ける。いつまでそうやって目を背けていられるだろうか、見ものだと臨也は思った。引き連れていた大勢の仲間をなくした少年は、あまりに脆く、またとても弱々しかった。
もっと追い詰められればいいのに、そうしてその卵を踏みつけてやろう。そう思った臨也の期待は、しかしすぐに裏切られることとなる。
少年の道の先に、新たな光が宿った。
臨也は何が起こるのかとその光景を見守る。傷ついた卵を抱えて、黄色の少年は黒髪の少年に縋りつく。黒髪の少年はその童顔を不思議そうにかしげながら、黄色の少年をあやすように撫でた。
まるで親子の対面のようなその光景。
黄色の卵のヒビ割れは、その黒髪の少年との接触によってゆっくりと塞がってゆく。なんて不愉快な光景だろうかと、臨也は舌打ちをした。
せっかくそこまで傷つけたのに、余計なことをするな。
文句を言いたくて、けれども正面からそう言うのもつまらない。二人の少年たちは常に一緒に居るということでは無かったので、臨也はまた気まぐれに道を変えた。
黒髪のほうの少年に、目的を変える。黄色の少年がいない時を見計らって慎重に接触を果たす。人目をかいくぐるスリルがほんの少し楽しく、そしてまた何も知らない人間の、無警戒の眼差しが愉快だった。
ざまあみろ、と臨也は唇の端を吊り上げる。
ざまあみろ、君は巻き添えをくらって傷つくことになる。ああでも、君の通ってきた道もずいぶんと面白いね。もしかして君で遊んだほうが楽しいかな?
臨也の歪んだ思想は、もはや少年の卵を砕くことに全力で向かおうとしていた。慎重に慎重に距離を詰めて、あってないような警戒を解き、信頼されることなど容易い。
もはや黄色の少年のことはどこかに忘れ去っていた。臨也のターゲットは完全に、目の前の黒髪の少年に移る。彼は人見知りをするほうなのか、なかなか自分の卵を表にだそうとしなかったので、臨也は自分の卵を先に見せてやることにした。
「俺のこれは、変なんだ。熱かったり冷たかったり、ざらざらしたりつるつるしたり、毎日違う」
そうして改めて見ると、卵は掌に少し余るくらいにまでは大きくなっていた。もしかして自分の卵も、あの天敵や黄色の少年と同じくらいにはなるのだろうか、と臨也が考えていると、黒髪の少年が小さく、おんなじですね、とつぶやいた。
「おんなじ?何が?」
「僕のこれと、あなたのそれは、同じ大きさですね」
少年が、大切そうに内ポケットから取り出したのは、いつか臨也が確かに持っていたような、純白の。
「全然、大きくならないんです」
「……おんなじだね、俺のも、大きくならない」
少年の卵は、何の色にも染まらずにそこにあって。