しあわせのたまご
臨也はほんの少し、それが羨ましかった。
少年は卵を抱きしめる。常に懐に隠して、ぎゅっと抱きしめている。
「きみのそれは、温かいかい?」
臨也は、いつか黄色の少年に尋ねたのと同じことを少年にも尋ねた。自分の卵だけがこれほどに気まぐれなのか、それとも他にも気まぐれな卵が存在するのか、知りたかったからだ。
少年は臨也の声に目を瞬かせ、それから一つ息をこぼして、いいえ、と答えた。
「温めようとしているんですけど、どうもうまくいかなくて」
少年は言う。掌に包み込む白い卵は、その手にすっぽりと隠れてしまう。
「冷たいんです。ずっと、温度が宿らない」
その声には感情が感じられず、臨也は息を小さく吐き出した。臨也の卵もまた冷たい時があったけれど、それでも温かい時だってちゃんとあったから、ずっと温度の宿らない少年の白い卵が不思議でならない。臨也は手を伸ばして気まぐれに少年のその肌に触れてみたけれど、確かにそこには温度があった。この手で握りしめても、卵は冷えたままだというのだろうか。
「どうして?そんなのおかしいよ、だって君の手には温度があるのに。もしかして本当は温かいんじゃないの?俺を騙しているんじゃないの?」
「あなたを騙して何になるんですか」
「じゃあ、触らせてよ」
「嫌です」
懐の中に卵をしまい込むその態度に、臨也はイライラが募るのを感じた。胸ポケットに入れた黒い卵がどくりと脈打つのを感じる。触るくらい、いいじゃないか、と思う。それとも俺に触れたら、その真っ白なものが真っ黒に変わるとでもいいたいのか。
大事に大事に温めても、それだけやってまだ冷たいならそんな卵は欠陥品じゃないのか、と臨也は思う。どれほど一生懸命になったって、きっと一生それに温度は宿らないんだ、と。それならば少年のしていることは無駄だ、全部無駄。愚かなことだ。
「触るくらいいいでしょ。それとも俺がそんなに嫌いなの」
奪いとって割ってやりたい衝動が強く臨也に生まれて、そんなふうに訪ねてみれば、少年は首をかしげて、それから小さく答えた。
「よく、わかりません」
「どういう意味?」
「好きとか、嫌いとか。そう言うの、わかんないんです」
「え?」
臨也は言われた意味を理解するのに、若干の時間を要した。人間全部を愛している臨也に取って、好きとか嫌いの概念が無い、という少年の言葉は酷く曖昧なもののように思える。だって、わからないとか分かるとか、そういう問題ではないだろう?
「じゃあ何、俺のことも好きか嫌いか、分かんないの?」
「……よく、わかりません」
「でも君は、紀田君のことは好きなんだろ?後この前のほら、園原さん?好きなんだろう?」
「……居心地の良い二人です。でも、それは……好きとかいう感情なのでしょうか?」
そんなの俺に聞くな、と臨也は思う。居心地がいいっていうんなら、普通それは好きってことなんじゃないのか。俺のことはわからないと一言で言い切ったくせに、あの二人なら居心地がいいと判断できるんじゃないか。
イライラする、イライラする。
つまりあの二人が君の特別ってことなんだ、そうだろう?
「むかつくなあ、その態度!」
胸の奥がどくりどくりと脈打つ。黒い卵が臨也の感情を吸い上げて、大きくなるのが分かった。胸ポケットに収まりきらないそれを取り出して抱える。いつか黄色の少年が抱いていた位の大きさになっていた。けれどもその卵には、今、温度がない。
「臨也さんのそれ、いつの間に大きくなったんですか?」
驚いたように尋ねる少年に、少しだけ気分を向上させ、臨也はにんまりと笑ってみせた。いつの間に、なんてよくわからない。けれどもまだ小さいままの少年の卵と、大きくなった自分の卵を見比べると酷く優越感が芽生える。
俺の卵は欠陥品じゃなかった。でも、きっと君の卵は欠陥品だ、壊れてるんだ。そう思うことでさっきまでの苛立ちを薄めて、臨也は大きく息を吐く。
「帝人君さあ、そんなの捨ててしまいなよ」
冷たい言葉を吐き出せば、少年が息を飲んだ。自分の言葉に反応する少年を見ると心が弾んで、黒い卵がもう一回り大きくなったような気がする。
「君だって薄々は気づいているんじゃないの?どんなに大切にしたって、どれほど温めたって、それはきっと永遠にそのまんまだ、壊れているんだよ」
「そんなこと、無いです」
「気づいているくせに、強がりだな君は。君がそれに時間をさくだけ無駄なんだよ?とっとと見切りをつけて、その時間を他のものに費やすべきじゃないの?」
例えば俺を構うとかさ。言いかけた言葉は飲み込む。その手には他にすることがあるんじゃないのか、と臨也は思う。例えば、俺と手をつないでみるとか、俺に触ってみるとか、そういうことだ。他の人間に触っている少年を見るのはイラつくけれど、思い出してみれば少年の方から臨也に触ったことは一度もないじゃないか。
そうだそうだ、そんなくだらない物捨ててしまえ。そうすれば君は俺を見るだろう。
臨也はいい事を考えついたとでも言うように、早速少年の卵に手を伸ばす。息を飲んでとっさにそれを隠す少年の、細い手首を捕まえてねじり上げて、懐に隠された真っ白な卵を奪いとって。
「やめてください!返して!」
叫ぶ声が必死なほど、臨也は優越感を憶えて満足した。
この子は今俺に全身全霊を傾けている、その事実がなによりも心を満たす。最初のころは、警戒されないように慎重に近づいて、策略を駆使して少年の卵を割ってやろうとしていたのに、もうそんなことはどうでもいいような気さえした。今何よりも大切で優先すべきなのは、この卵を割って砕いてやろうという欲求だけ。
臨也らしくもない。
こんなふうに直感的な行動を取って、念密に計算して張り巡らしてきた罠をムダにするなんて。少し前の自分なら自分に呆れて笑ったことだろう。奪い取ったすべらかな卵はとても冷たく、臨也にすがりついて返してくれと叫ぶ少年の掌は温かかった。
ざまあみろ。
臨也は笑う。君は俺のせいで大切なものを失うんだ。その事実を受け入れろ、咀嚼して、そして飲み込め。君を今泣かせているのは俺だ。好きになれないなら、せめて嫌えよ。
叩きつけた卵は脆く軽く、そうしてあっという間に砕けて散らばる。
黄色の少年のものよりも簡単に割れた白い卵に、臨也はたいそう満足した。これだ、こんなふうにあの時も砕いてやりたかったのだ。臨也の黒い卵は喜ぶように脈打ち、温度を宿してまた大きくなる。
「……っ、酷、い」
臨也に掴まれたままの腕から力をなくし、少年が絶望の声を上げた。何が酷いというのか理解出来ない。だってあんなもの、暖かくもなければ大きくもない、ただの邪魔なお荷物じゃないか。それをなくしてやったんだから、少年は臨也に感謝するべきだ。
「紀田君の卵はこんなに簡単に割れなかったよ?つまり君のこれはさあ、砕ける定めだったんじゃないの?俺が落としたくらいでこんな粉々になっちゃって、本当にもろいよね。でも当然だろ、これは最初から壊れてたんだから」