はぴはぴ
先生、と呼びかけた。
僕の呼びかけが先生の頭の上を3周くらい回ってから、先生はやっと顔を上げた。
「はい」
「寝てましたか?」
「寝てません」
「食べながら寝ると、危ないですよ」
「以後気を付けます」
先生の右手からは食べかけのベーグルがずり落ちそうになっていた。先生はそれに気付いて慌てて持ち直した。僕は先生のために淹れたミルクティをダイニングテーブルに置く。先生はありがとうと言ってにこりと笑った。
「で、どっちが好きですか?」
先生の隣の席を陣取りながら、意趣返しとばかりに曖昧に訊ねる。先生はにこりと笑ったまま目線を泳がせた。
「僕の話、聞いてませんでした?」
「そんなことはないよ。ちゃんと聞いてた。でもその、なんていうか」
チーズを挟んだベーグルをわたわたと上下させて先生が慌てる。その姿がとても好ましかったので、僕は先生を許すことにした。もともと怒ってなどいないし、むしろ悪いのは朝食時に質問した僕のほうなのだ。
「アッサムとダージリンはどっちが好きですか、って聞いたんですけど」
先生はミルクティに満たされたカップを見た。ゆらゆらと新鮮な香気を立ち上げながら、不透明な液体は先生の視線を受け止める。
「おかわりの話?」
「ちょっと違います」
「どっちも好き」
「決めてください」
「うーん、じゃあアッサム」
どっちも好きだけど、という心の声が読みとれる顔で、先生はそう言った。明日聞いたら違う答えだったかもしれないなと僕は思う。先生はカップを取り上げて紅茶をひとくち飲んだ。難しい顔が少しだけゆるんだので、僕は安心して、アッサム、と復唱した。
「じゃ、ブルーベリーとクランベリーはどっちが好き?」
「どっちも好き」
「その答えはダメです」
「うーん」
先生はベーグルを見つめて唸った。そこに答えが書いてあるわけでもあるまいに。ベーグルが囁いてくれるわけでもあるまいに。何かを念じるような顔で先生はベーグルを見つめ、やがて口を開いた。
「ブルーベリー?」
疑問文だとちょっと困るなあ。
でもそれ以上の答えは引き出せそうになかったので、ブルーベリーということにしよう、と勝手に決めた。
「林檎と梨ではどっち?」
先生はそこでようやく僕の質問の不自然さに気付いた。不躾だとさえ自分では思っていたのだけれど、先生はそうは感じないでいてくれたらしかった。先生はちょんと首を傾げ、それから身体ごと僕の方に向き直った。
「りんご」
まず質問に答えてくれる辺り、人柄が伺えるというものだ。どっちも好きだろうに、そうは言わないでいてくれたし。
僕は先生の質問を待った。先生の表情は"不審3割・興味7割"と言ったところだ。
「なんのアンケート?」
「ひみつです」
僕は用意しておいた答えを間髪を入れずに差し出した。先生の表情が不審2割・興味8割に変化する。
「なにか企みごと?」
「企むだなんて、人聞きの悪い」
「でも教えてもらえないんだね?」
「そうです。今はまだ、ダメです」
「今は?じゃ、時期が来れば教えてもらえる?」
「もちろん」
にこりと笑って請け負うと、先生も笑顔を作った。しょうがないなあと何かを諦めたようであり、なりゆきを見守る覚悟を決めたようでもあった。
先生は右手のベーグルを仲間を見るような目で見つめ、はむ、とそれにかみついた。
「もうひとつ質問」
「はむ」
「僕とシリウスとどっちが好き?」
先生はベーグルにかみついたまま、再び僕の方に向き直った。先生は僕から視線を外さずに、はむはむはむと口の中のものを飲み下した。
「どっちも好き」
その答えはダメです、と言いかける口を、先生は笑顔で封じた。
「それは、チューリップとサンドイッチはどっちが好きかと聞かれるようなものだよ。比べようがない。どっちも好きなんだもの、それ以外に答えられない」
僕が聞きたかったのはそんなことではなかったのだけれど、僕はそれ以上追及せず、ひとつ頷いておとなしく引き下がった。彼が本気でそう思っていることは明らかだったし、これが僕をはぐらかすための方便でないことも分かっていたからだ。僕の方が好きだとその場しのぎの台詞を言わないだけ先生は誠実だ。即答でシリウスと言われないだけ、良しとするべきなのだ。
「アンケートは、以上です」
「参考になったかな」
「ええ、とても。お礼にオレンジはいかがです?」
僕の提案に、先生は大きく頷いた。
じゃ少し待っててくださいね。そう言い置いて、僕はダイニングを出た。
ドアの向こうに控えていたシリウスに、僕は小声で報告した。憮然としているであろう表情をあらためる必要はないだろう。
「アッサム。ブルーベリー。林檎。それから"どっちも好き"」
ぶうとむくれると、シリウスは笑って僕の頭に手を置いた。
「自分と弟とどっちが好きかって訊かれてる親みたいな回答だったな」
分かってた。先生は僕の質問をそういうふうにしか受け取らない。だから引き下がったんだ。
本心の答えをもらえるなんて期待はしていなかったし、そんなもの本当は聞きたくなんてなかった。僕はただ、少しでいいから、先生の地平を揺らしたかっただけなんだ。
結果、それはぴくりとも揺れなかったわけだけれど。
「僕、親にそんなの訊いたことないけど。てゆか訊けなかったけど」
「俺だって訊いたことねえよ。でもお前には俺たちがいるじゃねーか。な」
「ああいう言葉を聞きたかったんじゃなかったんだけどなあ」
「まあ、あまり気を落とすな。俺がそんなこと訊いたら小一時間説教だぞ。それがないだけ良しとしろ」
シリウスはオレンジをふたつ呼び寄せて、それを僕の手に乗せた。
「ほれ、行って来い。買い出し係は引き受けてやる。アッサム、ブルーベリー、林檎。他には?」
「ワインと小麦粉。あとシナモンも」
「りょーかい」
ひらひらと手を振るシリウスの背中を見送って、僕は再びドアに手をかけた。
シリウスがいない間にもっと先生とお近づきになるんだ、と、これまでに何度も潰えた目標を胸に刻みつつ。
僕の呼びかけが先生の頭の上を3周くらい回ってから、先生はやっと顔を上げた。
「はい」
「寝てましたか?」
「寝てません」
「食べながら寝ると、危ないですよ」
「以後気を付けます」
先生の右手からは食べかけのベーグルがずり落ちそうになっていた。先生はそれに気付いて慌てて持ち直した。僕は先生のために淹れたミルクティをダイニングテーブルに置く。先生はありがとうと言ってにこりと笑った。
「で、どっちが好きですか?」
先生の隣の席を陣取りながら、意趣返しとばかりに曖昧に訊ねる。先生はにこりと笑ったまま目線を泳がせた。
「僕の話、聞いてませんでした?」
「そんなことはないよ。ちゃんと聞いてた。でもその、なんていうか」
チーズを挟んだベーグルをわたわたと上下させて先生が慌てる。その姿がとても好ましかったので、僕は先生を許すことにした。もともと怒ってなどいないし、むしろ悪いのは朝食時に質問した僕のほうなのだ。
「アッサムとダージリンはどっちが好きですか、って聞いたんですけど」
先生はミルクティに満たされたカップを見た。ゆらゆらと新鮮な香気を立ち上げながら、不透明な液体は先生の視線を受け止める。
「おかわりの話?」
「ちょっと違います」
「どっちも好き」
「決めてください」
「うーん、じゃあアッサム」
どっちも好きだけど、という心の声が読みとれる顔で、先生はそう言った。明日聞いたら違う答えだったかもしれないなと僕は思う。先生はカップを取り上げて紅茶をひとくち飲んだ。難しい顔が少しだけゆるんだので、僕は安心して、アッサム、と復唱した。
「じゃ、ブルーベリーとクランベリーはどっちが好き?」
「どっちも好き」
「その答えはダメです」
「うーん」
先生はベーグルを見つめて唸った。そこに答えが書いてあるわけでもあるまいに。ベーグルが囁いてくれるわけでもあるまいに。何かを念じるような顔で先生はベーグルを見つめ、やがて口を開いた。
「ブルーベリー?」
疑問文だとちょっと困るなあ。
でもそれ以上の答えは引き出せそうになかったので、ブルーベリーということにしよう、と勝手に決めた。
「林檎と梨ではどっち?」
先生はそこでようやく僕の質問の不自然さに気付いた。不躾だとさえ自分では思っていたのだけれど、先生はそうは感じないでいてくれたらしかった。先生はちょんと首を傾げ、それから身体ごと僕の方に向き直った。
「りんご」
まず質問に答えてくれる辺り、人柄が伺えるというものだ。どっちも好きだろうに、そうは言わないでいてくれたし。
僕は先生の質問を待った。先生の表情は"不審3割・興味7割"と言ったところだ。
「なんのアンケート?」
「ひみつです」
僕は用意しておいた答えを間髪を入れずに差し出した。先生の表情が不審2割・興味8割に変化する。
「なにか企みごと?」
「企むだなんて、人聞きの悪い」
「でも教えてもらえないんだね?」
「そうです。今はまだ、ダメです」
「今は?じゃ、時期が来れば教えてもらえる?」
「もちろん」
にこりと笑って請け負うと、先生も笑顔を作った。しょうがないなあと何かを諦めたようであり、なりゆきを見守る覚悟を決めたようでもあった。
先生は右手のベーグルを仲間を見るような目で見つめ、はむ、とそれにかみついた。
「もうひとつ質問」
「はむ」
「僕とシリウスとどっちが好き?」
先生はベーグルにかみついたまま、再び僕の方に向き直った。先生は僕から視線を外さずに、はむはむはむと口の中のものを飲み下した。
「どっちも好き」
その答えはダメです、と言いかける口を、先生は笑顔で封じた。
「それは、チューリップとサンドイッチはどっちが好きかと聞かれるようなものだよ。比べようがない。どっちも好きなんだもの、それ以外に答えられない」
僕が聞きたかったのはそんなことではなかったのだけれど、僕はそれ以上追及せず、ひとつ頷いておとなしく引き下がった。彼が本気でそう思っていることは明らかだったし、これが僕をはぐらかすための方便でないことも分かっていたからだ。僕の方が好きだとその場しのぎの台詞を言わないだけ先生は誠実だ。即答でシリウスと言われないだけ、良しとするべきなのだ。
「アンケートは、以上です」
「参考になったかな」
「ええ、とても。お礼にオレンジはいかがです?」
僕の提案に、先生は大きく頷いた。
じゃ少し待っててくださいね。そう言い置いて、僕はダイニングを出た。
ドアの向こうに控えていたシリウスに、僕は小声で報告した。憮然としているであろう表情をあらためる必要はないだろう。
「アッサム。ブルーベリー。林檎。それから"どっちも好き"」
ぶうとむくれると、シリウスは笑って僕の頭に手を置いた。
「自分と弟とどっちが好きかって訊かれてる親みたいな回答だったな」
分かってた。先生は僕の質問をそういうふうにしか受け取らない。だから引き下がったんだ。
本心の答えをもらえるなんて期待はしていなかったし、そんなもの本当は聞きたくなんてなかった。僕はただ、少しでいいから、先生の地平を揺らしたかっただけなんだ。
結果、それはぴくりとも揺れなかったわけだけれど。
「僕、親にそんなの訊いたことないけど。てゆか訊けなかったけど」
「俺だって訊いたことねえよ。でもお前には俺たちがいるじゃねーか。な」
「ああいう言葉を聞きたかったんじゃなかったんだけどなあ」
「まあ、あまり気を落とすな。俺がそんなこと訊いたら小一時間説教だぞ。それがないだけ良しとしろ」
シリウスはオレンジをふたつ呼び寄せて、それを僕の手に乗せた。
「ほれ、行って来い。買い出し係は引き受けてやる。アッサム、ブルーベリー、林檎。他には?」
「ワインと小麦粉。あとシナモンも」
「りょーかい」
ひらひらと手を振るシリウスの背中を見送って、僕は再びドアに手をかけた。
シリウスがいない間にもっと先生とお近づきになるんだ、と、これまでに何度も潰えた目標を胸に刻みつつ。