はぴはぴ
数日後。東からの日差しが空気を暖めはじめる頃。
僕たちは先生の部屋の前に立って、互いの身なりを確認した。
シリウスの髪は後ろできちんと束ねられ、シャツは襟にも袖にも皺ひとつない。僕の靴もぴかぴかに磨かれている。僕はソックスをきちんと引っ張り上げて、裾に付いていた糸くずを払った。
大事な日だもの。せめて精一杯のお祝いをしたい。
先生の部屋からは物音ひとつしなかった。まだ寝ているのだろうと踏んで、シリウスがそっとドアを開けた。
「おはようございまーす」
囁きのような小声で、一応挨拶をしてから部屋に足を入れる。
「朝ですよー」
僕の口調を真似て、シリウスが言う。
カーテンを開けると朝の光が眩しく室内を照らしたけれど、先生はまだ眠りの淵から離れるつもりはないようだった。んー、と不満げに声を漏らして、もぞもぞと毛布に潜り込む。
僕たちは先生の枕元に頭を並べ、床に膝をついた。
「起きてくださーい」
「朝ですよー」
「ご飯ですよー」
「いい天気ですよー」
交代で囁くと、先生は毛布の隙間から目を出した。眩しそうに眇めた片目が、おはよう、と力無い挨拶を返してくれる。ぱちぱちと先生は瞬きを繰り返したあと、眠ってしまったのかと思うくらいの間目をつむり、再び薄く目を開けて、ゆっくりと僕たちを眺めた。
「おはよう…」
「おはようございます。お誕生日おめでとうございます」
まだ寝ぼけ眼の先生に、僕はにこりと笑って挨拶をした。
「たんじょうび」
「そうですよ。お誕生日」
「あー、そうだったねえ」
「今日は特別な日ですから」
「それで、ええと、これは…?」
先生は、僕の白いカチューシャを指差しながら問うた。僕は立ち上がり、膝をぱんと払った。
膝が隠れない丈の黒いワンピースに白いエプロン。胸にはリボンが、袖口にはレースがひらひらと揺れている。
隣で得意げな顔をしているシリウスは、ウィングカラーのシャツにクロスタイ。ウエストコートには6個のボタン。
「メイドです」
「執事です」
先生は何もいわず、身体をひねって枕に顔をうずめた。その肩が小刻みに揺れている。
僕とシリウスは目を合わせ、とりあえず第一段階クリア、と互いを讃え合った。
シリウスはポケットから懐中時計を取り出した。金の鎖がちゃりちゃりと小さな音を立てた。
「さあさあお時間ですよ。メシですよ。」
「メシとか言わないでよ」
「んーじゃあ、あらためて」
シリウスは先生の耳元に口を寄せて、低く柔らかな声で呼びかけた。
「朝食の時間です。お支度を」
僕はたまらずに即座に吹き出した。
「ぶっはー!なにそれ!どこの男前気取りよ!?」
「気取りって言うな!男前だろうが!」
けんけんとやり合っていると、先生がむくりと起きあがった。ああ、いけない。こんなしょうもない争いをしている場合ではない。先生のお世話をしなくては。
僕たちは手に手にブラシやカーディガンを取った。髪を梳き、肩にカーディガンを羽織らせたところで、先生が遮るように手を挙げた。
「いや、あのね、ええと」
「はい、なんでしょう」
僕たちは手を止めて、先生の言葉を待つ。
「自分で、できますから」
先生まで言葉遣いが変わっている。そそくさとカーディガンに腕を通しながら、先生は困ったように笑った。
「もしかして、これが1日続くのかな?」
「その予定です」
「なにか問題でも」
「お望みなら明日からも」
「いや、気持ちはとっても嬉しいんだけどね。恰好も素敵だし。でも、もう十分堪能させてもらって満足したなあ、と思ってね」
シリウスは悲しそうな顔で僕を見た。僕も肩を落としてシリウスと顔を見合わせた。
「ご主人様はわれわれのサービスがお気に召さなかったらしいぞ、ハリー」
「僕たちが至らないからご主人様を悲しませるんだね」
「そうだな、ご主人様のご機嫌を損ねてしまった。ゆゆしき事態だ」
「一生懸命食事の用意したのに」
「無駄になったな」
きゅうん、と叱られた子犬のような視線をふたりで送る。先生はしばらくの間2人分の視線を黙って受け止め、それからブラシの柄で僕たちの頭をこつんこつんと叩いた。
「はいはい、じゃあ、朝食を頂きましょう。みんなでね」
はあい!と僕は元気良く手を挙げた。シリウスは先生の頭をこつんと小突き返した。
「そういうことだから、今日は付き合え。ご主人様」
「その"ご主人様"ってだけ、やめてもらえないか?君たちをかしずかせるのは、どうも落ち着かないよ」
「分かりました、ご主人様」
「…君たちはわたしで遊びたいのかな。誕生日の人間を捕まえて」
「まさか。祝いたいだけだろ。純粋な好意のあらわれ」
「だから黙って受け取れ、と」
「俺の誕生日は、俺が"ご主人様"になるんだから、どっちにしてもそれには付き合えよ」
「君に仕えるのは、正直ちょっと怖いなあ」
先生は苦笑をひらめかせ、それから僕たちの誕生日プレゼントを受け入れてくれた。
「そういうことなら、一緒に楽しもうか。君は"執事ごっこ"、ハリーは"メイドごっこ"ね」
「先生は"ご主人様ごっこ"ですよ」
「はいはい。さあ、今日の朝食は何かな?」
「くるみパンとライ麦パン。まずアッサムのミルクティをどうぞ。卵はどのようにいたしましょう」
「サニーサイドアップで」
「かしこまりました。ブルーベリーのタルトと林檎のコンポートもご用意してございます」
「わあ、ずいぶん豪華だね」
先生がふわりと笑ってくれるのを待って、僕たちは声を揃える。
だって、お誕生日ですから!
たいせつなひとの誕生日。あなたがこの世にあることに、あなたがここにいることに、あなたがわらってくれることに、あなたが生きていることに、
こころからの感謝を。
「コンポートは自信作です。って言っても、簡単に作れるものだけど」
「もうあんまり残ってないけどな」
「なんで」
「俺が食べたから」
「つまみ食い!?やめてよ、先生のために作ったのに!」
「味見だ。毒見」
「ご主人様ぁ!執事が横暴なんですぅー!」
「ん、では執事は朝食抜き」
「うわ、ちょ、考え直してくださいご主人様!」
「反省した?」
「しました。すげーしました」
「じゃ、許す」
楽しそうに先生が笑ってくれる。よかった、と思う。このプレゼントは先生に喜んでほしくて選んだものだったけれど、本当はきっと、僕たちが先生の喜ぶ顔を見たかったんだ。人は、少なくとも僕は、自分勝手でわがままな生き物だから、ついつい自分のために願ってしまう。先生が笑っていてくれますように。先生が幸せでいてくれますように。幸せになることをためらわないでいてくれますように。
…先生の誕生日なのに、先生にお願いすることばかりだ。