埴生の宿
大病禍を経、薬草や医療に興味を持ったコールが、薬草図鑑にあったある一文を元に、その著者たる老学者にたどり着くにはさほど時間を要しなかった。
庵にいる間は身分を捨てること。身の回りのことはすべて自分自身でやること。たったそれだけの条件を即座に飲み、コールは老学者に師事することとなった。
苗字にはどうしても、出自が付きまとう。ゆえにただの[ヤン・ヤシュカ]として。
師匠の元で学んでいたのは、主に植物学と薬草についてだ。コンコロルの血を引いているという老学者は、ずいぶん前に王府を離れ、庵を結んでこのまちにいた。
遊学という名目でこの地を訪れたヘクトル。会った当初は反発してばかりいた。
当然だ。期間限定とはいえ、自分が心から尊敬する師匠に同じく師事しているのに、さぼって遠乗りだの、花街に出かけるだの。そんなことが許されてなるものか。この老学者を訪ねたきっかけが同じ本であったということさえも気に食わなかった。
だいたい、貴族だの王族だのというのはわがままでいけない。少しばかり身分があるからといって。
などと考えるコール自身の出自も、下級ながら貴族階級ではあるのだが。
こちらが好感情を抱いていないのを知ってか知らずか、ヘクトルの方はやたらと声をかけてくる。年が近いこともあり、気安さもあるのだろう。
だが、遠乗りはともかく、花街の誘いやトト・ヘッツェンのお勧めには閉口した。
とはいえコールも年頃だ。興味が無いではなかったが、ヘクトル自身に対する反発心と、学びの場であるこの師匠の庵でそのような……と考えると、やはり頑なになるのだった。
***
ヘクトルはまた庵を抜け出して花街に行ったらしい。
ストックの薬草が少しばかり足りなかった。庭にはうまく根付かぬこの草は、森の奥に自生しているという。
ひとりでは行くなと言われているが、別に恐ろしい獣が出る訳じゃない。あまりに危険なようであれば、戻ってくれば良いだけのことだ。
理由をつけて自身を納得させ、コールは森の奥へと向かった。
ぽつぽつと降り出した雨が本格的になってきた。
が、目的の薬草を見つけた。
切り立った岩場に逆さになって生えるというその草は、図鑑に書いてあった通りの色をして、ぽつんと生えて揺れていた。
(あれか……!)
手頃な木に片腕をかけ、身体を支えてもう片腕をいっぱいに伸ばす。しかし、あと少しのところで届かない。
(もう、ちょっと……)
指先が触れそうで触れない距離。コールは身体をさらにのばそうとした。その時。
(────!)
雨に打たれた指先が滑り、木から離れた。
支えを失った身体は、そのまま岩場の下へと転落した。
出っ張った岩に打たれること数回。全身が痛いが、生きている。だが、立ち上がることは出来なかった。酷く捻ったようだ。
なんとか這って岩陰に避難したものの、雨に濡れた衣服は容赦なく体温を、そして体力を奪う。
寒さと痛みに気が遠くなりかける。
きっと、このまま意識を失えばもう目覚めることはないだろう。
ああ、どこかで自分の名を呼ばれている気がする。
迎えに来てくれたのは、もうずいぶん前に亡くなった祖父母のどちらかだろうか。それとも大病禍の折、幼くして逝った弟だろうか。
少しずつ近づいてくる。
ヤシュカ。ヤシュカ。
「──ヤシュカ!」
朦朧としていた意識がはっきりした。
祖父母のどちらでも、ましてや弟でもなかった。
「……ヘクトル、さま……」
雨よけのフード付きマントを羽織ってはいるものの、すでにその役目を果たさないほどびっしょりと濡れそぼり、前髪からは雫が滴っている。主が鞍から滑り降り、白馬が身震いすると周囲に水滴が散った。
「ヤシュカ! ……よかった、呼んでも返事がないから、最悪の事態も想定してしまったよ。帰ろう。お師さまも心配しておられる」
力の入らない身体をヘクトルの助けを借りて、自身を馬上になんとか持ち上げる。
「ちょっと重くなるが…もう一駆け、よろしくな」
白馬の首を軽く叩いて声をかけると、後ろにひらりと飛び乗った。
「すぐだからな、ヤシュカ! もう少し頑張れよ!」
ハイヤー、とかけ声とともに拍車を打つ。
嘶いて駆け出す馬上でヘクトルに抱き支えられたまま、ただ揺らされていることしか出来なかった。
骨が折れている様子はないから、まずは温まって服を着替えろと湯殿に放り込まれた。
冷えきった指先では釦を外すことも困難だったが、湯に浸かるとすぐにあちらこちらの感覚が戻ってきた。ぶつけたりひねったりした部分の痛みもあるが、これはまあ仕方がない。後で膏薬を作って貼っておこう、と考えた。
「ヘクトル様、助けていただいてありがとうございました。……申し訳ありません」
思慮が浅かった。師匠が理由もなく物事を禁じる筈が無いというのに。気が逸り、結果として周囲を巻き込み、迷惑をかけてしまった。
「ま、無事だったんだし気にすんなよ……っつーか、元はといえば俺が抜け出したのが悪いんだし」
コールを一番心配して、血相を変えて飛び出したのはヘクトルだと師匠から聞かされている。
「……しかしどうして、私を助けてくれたのですか。私があなたを嫌っていたことくらい、おわかりだったでしょうに」
ああ、とヘクトルが笑んだ。
「おまえみたいに、反発心むき出しで、でも追い落とそうとかそういう感じじゃないヤツって周囲にいなかったし、おまえが俺をそういう風に嫌うのって、俺がお師さまの言うことをきちんときかないからだもんな」
理由があって、人のために怒れるヤツって尊敬出来ると思うぜ、と真剣な眼差しを向けられ、ちょっと照れた。
「……それに、誰かに嫌われてるからってそいつをいちいち嫌ってちゃ、良い王になんてなれないだろう。どれだけ自分を嫌っている相手でも、自分の国民なら、ちゃんと守らないとな」
自分が思っていたよりも、余程きちんとした考えを持っている。
ただのさぼり魔だと思っていた己を恥じ、ヘクトルに敬意を抱いた。
そのことがあってからは、ヘクトルともすっかり打ち解けた。
真面目と不真面目。一見して真逆のふたりだったが、ふたりとも師匠を尊敬し、また議論をたたかわせては互いの論理や思想に視野を広げ、尊敬の念を持てる、良い弟子関係といえた。
……相変わらず、花街の誘いやトト・ヘッツェンのお勧めには閉口したが。
***
やがて季節が巡り、次の遊学先の受け入れ体勢が整ったという報せが来た。ヘクトルがここを去る。最初から決まっていたこととはいえ、どうにも寂しい気持ちは否めない。
ヘクトルのこの申し出は、思ってもみないものだった。
「ヤシュカ、出来たらなんだが……おまえも来ないか? 俺にはおまえみたいに真面目で、周囲のことを考えて行動できて、あと時には俺のことを叱ってくれるようなヤツが…必要だと思う」
ヘクトルについていく。
つまりは、王太子付きの従者になる、ということだ。
身に余る栄誉。
庵にいる間は身分を捨てること。身の回りのことはすべて自分自身でやること。たったそれだけの条件を即座に飲み、コールは老学者に師事することとなった。
苗字にはどうしても、出自が付きまとう。ゆえにただの[ヤン・ヤシュカ]として。
師匠の元で学んでいたのは、主に植物学と薬草についてだ。コンコロルの血を引いているという老学者は、ずいぶん前に王府を離れ、庵を結んでこのまちにいた。
遊学という名目でこの地を訪れたヘクトル。会った当初は反発してばかりいた。
当然だ。期間限定とはいえ、自分が心から尊敬する師匠に同じく師事しているのに、さぼって遠乗りだの、花街に出かけるだの。そんなことが許されてなるものか。この老学者を訪ねたきっかけが同じ本であったということさえも気に食わなかった。
だいたい、貴族だの王族だのというのはわがままでいけない。少しばかり身分があるからといって。
などと考えるコール自身の出自も、下級ながら貴族階級ではあるのだが。
こちらが好感情を抱いていないのを知ってか知らずか、ヘクトルの方はやたらと声をかけてくる。年が近いこともあり、気安さもあるのだろう。
だが、遠乗りはともかく、花街の誘いやトト・ヘッツェンのお勧めには閉口した。
とはいえコールも年頃だ。興味が無いではなかったが、ヘクトル自身に対する反発心と、学びの場であるこの師匠の庵でそのような……と考えると、やはり頑なになるのだった。
***
ヘクトルはまた庵を抜け出して花街に行ったらしい。
ストックの薬草が少しばかり足りなかった。庭にはうまく根付かぬこの草は、森の奥に自生しているという。
ひとりでは行くなと言われているが、別に恐ろしい獣が出る訳じゃない。あまりに危険なようであれば、戻ってくれば良いだけのことだ。
理由をつけて自身を納得させ、コールは森の奥へと向かった。
ぽつぽつと降り出した雨が本格的になってきた。
が、目的の薬草を見つけた。
切り立った岩場に逆さになって生えるというその草は、図鑑に書いてあった通りの色をして、ぽつんと生えて揺れていた。
(あれか……!)
手頃な木に片腕をかけ、身体を支えてもう片腕をいっぱいに伸ばす。しかし、あと少しのところで届かない。
(もう、ちょっと……)
指先が触れそうで触れない距離。コールは身体をさらにのばそうとした。その時。
(────!)
雨に打たれた指先が滑り、木から離れた。
支えを失った身体は、そのまま岩場の下へと転落した。
出っ張った岩に打たれること数回。全身が痛いが、生きている。だが、立ち上がることは出来なかった。酷く捻ったようだ。
なんとか這って岩陰に避難したものの、雨に濡れた衣服は容赦なく体温を、そして体力を奪う。
寒さと痛みに気が遠くなりかける。
きっと、このまま意識を失えばもう目覚めることはないだろう。
ああ、どこかで自分の名を呼ばれている気がする。
迎えに来てくれたのは、もうずいぶん前に亡くなった祖父母のどちらかだろうか。それとも大病禍の折、幼くして逝った弟だろうか。
少しずつ近づいてくる。
ヤシュカ。ヤシュカ。
「──ヤシュカ!」
朦朧としていた意識がはっきりした。
祖父母のどちらでも、ましてや弟でもなかった。
「……ヘクトル、さま……」
雨よけのフード付きマントを羽織ってはいるものの、すでにその役目を果たさないほどびっしょりと濡れそぼり、前髪からは雫が滴っている。主が鞍から滑り降り、白馬が身震いすると周囲に水滴が散った。
「ヤシュカ! ……よかった、呼んでも返事がないから、最悪の事態も想定してしまったよ。帰ろう。お師さまも心配しておられる」
力の入らない身体をヘクトルの助けを借りて、自身を馬上になんとか持ち上げる。
「ちょっと重くなるが…もう一駆け、よろしくな」
白馬の首を軽く叩いて声をかけると、後ろにひらりと飛び乗った。
「すぐだからな、ヤシュカ! もう少し頑張れよ!」
ハイヤー、とかけ声とともに拍車を打つ。
嘶いて駆け出す馬上でヘクトルに抱き支えられたまま、ただ揺らされていることしか出来なかった。
骨が折れている様子はないから、まずは温まって服を着替えろと湯殿に放り込まれた。
冷えきった指先では釦を外すことも困難だったが、湯に浸かるとすぐにあちらこちらの感覚が戻ってきた。ぶつけたりひねったりした部分の痛みもあるが、これはまあ仕方がない。後で膏薬を作って貼っておこう、と考えた。
「ヘクトル様、助けていただいてありがとうございました。……申し訳ありません」
思慮が浅かった。師匠が理由もなく物事を禁じる筈が無いというのに。気が逸り、結果として周囲を巻き込み、迷惑をかけてしまった。
「ま、無事だったんだし気にすんなよ……っつーか、元はといえば俺が抜け出したのが悪いんだし」
コールを一番心配して、血相を変えて飛び出したのはヘクトルだと師匠から聞かされている。
「……しかしどうして、私を助けてくれたのですか。私があなたを嫌っていたことくらい、おわかりだったでしょうに」
ああ、とヘクトルが笑んだ。
「おまえみたいに、反発心むき出しで、でも追い落とそうとかそういう感じじゃないヤツって周囲にいなかったし、おまえが俺をそういう風に嫌うのって、俺がお師さまの言うことをきちんときかないからだもんな」
理由があって、人のために怒れるヤツって尊敬出来ると思うぜ、と真剣な眼差しを向けられ、ちょっと照れた。
「……それに、誰かに嫌われてるからってそいつをいちいち嫌ってちゃ、良い王になんてなれないだろう。どれだけ自分を嫌っている相手でも、自分の国民なら、ちゃんと守らないとな」
自分が思っていたよりも、余程きちんとした考えを持っている。
ただのさぼり魔だと思っていた己を恥じ、ヘクトルに敬意を抱いた。
そのことがあってからは、ヘクトルともすっかり打ち解けた。
真面目と不真面目。一見して真逆のふたりだったが、ふたりとも師匠を尊敬し、また議論をたたかわせては互いの論理や思想に視野を広げ、尊敬の念を持てる、良い弟子関係といえた。
……相変わらず、花街の誘いやトト・ヘッツェンのお勧めには閉口したが。
***
やがて季節が巡り、次の遊学先の受け入れ体勢が整ったという報せが来た。ヘクトルがここを去る。最初から決まっていたこととはいえ、どうにも寂しい気持ちは否めない。
ヘクトルのこの申し出は、思ってもみないものだった。
「ヤシュカ、出来たらなんだが……おまえも来ないか? 俺にはおまえみたいに真面目で、周囲のことを考えて行動できて、あと時には俺のことを叱ってくれるようなヤツが…必要だと思う」
ヘクトルについていく。
つまりは、王太子付きの従者になる、ということだ。
身に余る栄誉。