動けない足
吹き抜ける風が、さらさらと葉擦れの音を響かせる。
音に誘われ見上げた先に広がるのは、鮮やかなまでの紅。そこかしこを彩る紅葉の色彩は、まるで炎が揺らめいているかのようで。畏怖を感じると同時に、深く心に響くものがある。
そこまで思い至ってから、ふと疑問に思う。
ほんの数刻前まで、この辺りはこんな景色だっただろうか。今見上げている紅葉の葉も、まだ青々としていたはずなのに。こんな風に、ほんの僅か呆けている間に色づいてしまうものだったろうか。
此処に来たばかりの頃は、まだ少しは時間の感覚があったはずなのに。気がついた時には、こんな風に季節が通り過ぎていることがよくある。それだけ、自分の中で欠落しつつあるのだろうか。まだ、この身が風を感じ日の光を眩しいと思っていた頃の感覚が。
取り留めのない思考が流れてゆく最中、不意にかさりと音が聞こえた。明らかに枯れ葉を踏むそれに振り返れば、其処にいたのは女の子供。黒く真っ直ぐな髪を結い上げ、紅葉の木々に溶け込んでしまいそうな程鮮やかな赤い着物を身に纏った童女は、その瞳を真丸に見開いて此方を見ている。
「…だれ?」
驚いたことに、問いかけの言葉が投げられた。思わず目を瞠る三成とは裏腹に、童女はあどけない表情のまま、もう一度問いかける。
「きつねさん?」
何を根拠にそう思う、と言ってやりたかったが子供が相手ではそうしても意味のないことだろう。小さく溜息をついて肩を竦め、答えを返してやる。
「狐だろうと何だろうと、貴様の好きなように思えばいい」
久しぶりに口から滑り出した言葉は、掠れることもなく音を成した。よくよく考えてみれば、もう身体というものが存在しないのだからそういう心配をする必要すらなかったともいう。
紡いだ声が果たして伝わるのか些か不安だったが、童女にはしっかりと届いたようだ。不思議そうに首を傾げてはいるが、警戒する様子もなく此方に歩み寄ってくる。周囲に、親と思しき姿は見当たらない。
「きつねさん、このお山のかみさま?」
どうやら自分は『きつねさん』とやらで定着したようだ。まだ生きていた頃に狐の異名をとっていた身としては、なんとも不思議な心地がする。
…それとも、この童女には自分が狐に見えるのだろうか。三成自身の目に映る姿は生前のそれと何ら変わらないが、向こうにとってはそうでないのかもしれない。
見たところ、まだ五つを過ぎるか否かの頃合。まだ神の子と呼ばれているであろうこの子供には、自分がどう映っているのか。気にならないわけではないが、問い質したところで詮のないことだろう。
苦笑いにも似た笑みを微かに零し、三成は首を振った。
「いや、違う。俺はただの死人だ」
「しびと? しびとってなに?」
「まだ幼いお前には、分からなくとも良いことだ。それより、それはあまり人前で口にしてはならんぞ」
「どうして?」
「大人が嫌うからだ、その言葉は」
戦ばかりが続くこの乱世では、人が死ぬのはもはや日常茶飯事だ。かくいう三成でさえ、戦場で人を殺めたのは数知れない。義の為と大義名分を掲げていても、足元に積み重なる屍に死を感じずにいられるはずもなく。
誰だろうと、死ぬのは怖い。ましてや、大切な者を失くした慟哭は自分が死ぬよりも辛いことさえある。
ずきりと、胸の奥が痛んだ。もう痛みは感じなくなって久しかったはずなのに、思い出しただけで疼くのはまだ諦めがつかないせいだろうか。
「ふーん。へんなの」
まだ不思議そうに首を傾げていたが、童女はとりあえず納得したようだ。そしてその辺にごろりと転がっている小さな岩に器用によじ登り腰掛ける。…どうやら暫く此処に腰を落ち着けるようだ。
そうして、改めて童女が三成を見上げる。岩に登ることで目線が高くなったお蔭か、さっきよりも視線が近い。
「じゃあ、きつねさんはここで何をしてるの?」
答えが返らないと本能的に察したのか、質問が変わった。黒で彩られた瞳は、子供ならではの好奇心で一杯に満たされている。何の汚れも知らない、いっそ無垢なまでの眼差しに羨ましささえ覚えてしまうのはこの世の醜さばかり目にしてきた故か。
胸中に芽生えかけた感情に内心苦笑して、三成は相手から目を逸らした。今更羨望を覚えたとしても、もはや意味のないことだと知っているから。
「……人を、待っている」
「だれを?」
「…何よりも大切だった人だ」
また、胸が鈍く痛む。
そう、何よりも大切だった。自分へと真っ直ぐに向けられる眼差しも、戦が終わった後必ず存在を確かめるようにきつく抱いてくる腕も、何の疑いもなくこの名を呼んでくれた声も。
誰よりも強く、それでいて脆い。ふとした瞬間に垣間見える暗い表情が、彼を包む深い闇を表しているかのようで。何をしてやれるというわけでもないのに、手を伸ばしてしまった。奇しくも、取ろうとしたはずの手が自分にも伸ばされていたのには驚いたが。
幸せだったと、思う。ほんの僅かな間でしかなかったが、それでも共にいた時間は誰よりも満たされていたと、彼も思っていてくれればいいのに。
けれど、置いてきてしまった。あの戦の前に交わした約束が、今も彼を生に縛り付けているのかと思うとどうしても居た堪れなくて。
今、彼……幸村が何処にいるのかは、分からない。此処に来る前に上田に行ってはみたが、姿は見当たらなかった。既に鬼籍の身たる自分の声など誰にも届くはずはなく、仕方なく佐和山に戻って来ざるを得なかったのはもうどれ位前のことだろう。
「いつ来るの?」
「……さあ、な。明日来るかもしれないし、あと十年は後かもしれない」
「わかんないんだ?」
「何処にいるのか、皆目見当がつかないからな」
「さがしに、いかないの?」
「…………行けるものなら、行きたい。だが、もしかしたら探しに行った矢先に訪ねてくるかもしれない。そうしてすれ違いになる位なら、ここでずっと待っている方がいいだろう」
そんなものは詭弁だと、自分でもよく分かっている。
本当は、臆病なだけだ。もう時間の感覚が失われつつあるせいで、どれだけの時間が経ったのかよく分からない。もしかしたら、かなりの年数が経過していて幸村はとうの昔に死んでしまっているのかもしれない。
あるいは、流された先で何もかも忘れて別の幸せを見つけている可能性もある。自分とは違い彼の傷を包み込んでやれる優しい女でも見つけて、子を成して、幸せに暮らしているとしたら。それを優しく見守ってやれる自信など、三成にはない。
結局、現実を見たくないが故に此処に留まっているに過ぎないのだ。こうして佇んでいることでさえ、自己満足にしか過ぎないというのに。
それでも、来て欲しいと思ってしまうのは自らの醜さが導く勝手な願い。なんて、なんて愚かしいことだろう。
それだけ、好いてしまったということか。真田幸村という、たった一人の存在を。
「じゃあ、きつねさんのたいせつな人、はやく来るといいね」
「……そうだな」
相槌を打って、ふと気づく。