動けない足
そういえば、こんな風に子供と話したことなどあまりなかった。此処に城を頂いていたというのに、実際にいたのは専ら大坂だ。統治は父に任せきりで、主君である秀吉の下で政務に追われていた頃が懐かしい。
見回りに出た先で、何度も民と話をする機会はあった。ただ、こうしてのんびりと何も気にせずにいられるなんてことは、なかったと思う。
不思議なものだ。死した後になって、こんな風に自分を省みるようになるとは。
「ねえ、きつねさん」
「何だ」
「いしだみつなりさまって、知ってる?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
だが数秒かけて頭の中に沁み込み漸く理解した言葉は、紛れもない自分の名前で。思わず面食らってしまう三成をよそに、童女は話し続ける。
「あのね、ととさまがいってたの。いしだみつなりさまがここをおさめていたころはへいわだった、って。あたしはよくわからないけど、ととさまがほめてたから、すごーくいい人なんだとおもう。
でもね、むらの人たちにきいてもだれもおしえてくれないの。なんでかな?」
首を傾げる童女に、三成はただ言葉を失くす。
おそらく、誰も口にしないのは家康の目を憚ってだろう。少なくとも、今となっては石田三成という存在は天下に仇なした逆賊とされているはずだ。いくら過去に統治していた国とはいえ、みだりにその名を口にすれば…ましてや褒めそやそうものなら反逆の意があると思われかねない。
その事情を、この幼子が知るはずもないだろう。大人が口を閉ざせば、そこで終わりだ。そうしていつしか忘れられてゆくのだろう。自分がやろうとしたことも、目指したものも、すべて埋もれて消えていく。
それが時代の流れだというのなら、それも仕方のないことだ。半ば諦めにも似た笑みを、三成は微かに浮かべる。
「ね、きつねさんだったら知ってる?」
「……生憎と、俺もその名は知らないな。教えてやれることが何もなくて、すまない。
それより、もうそろそろ帰らねばならぬ時間ではないのか? 日が暮れてきているぞ」
「…あ、ほんとだ」
童女が振り返った先では、空が茜色に染まり始めている。それ程危なくないとはいえ、夜闇に覆われた山は方向感覚を狂わせる。幼い子供が一人きりで降りるには、難しいだろう。
「もういかなきゃ、かかさまにおこられちゃう」
「そうしておけ。それと、今日のことは誰にも話してはならんぞ」
「どうして?」
「大人に話した所で信じてくれるわけがない。お前だけの胸に仕舞っておけ」
「……そう、なの?」
「ああ、そういうものだ」
「…はーい」
少々不服げではあるが、三成の表情がからかうようなそれではなかったことから何となく察したのだろう。もう少し大きくなれば、今言ったことの意味も分かってくれるはず。
小さく頷いて、童女は岩から飛び降りた。服についた土を払うと、これ以上ないほど無邪気な笑みを浮かべる。
「それじゃ、きつねさん。またね」
ひらりと手を振り、振り返ることもなく山を駆け下りていく。また会えると、心の底から信じているせいだろうか。そんな保証など、何処にもないというのに。
童女の姿が見えなくなってから、三成は空を振り仰いだ。茜に染まる空の端が、ゆっくりと夜の闇に侵食され始めている。
あと何度、夜と朝を迎えればいいのか。全てを諦め潔く涅槃に行くか、それとも覚悟を決めて幸村を探しに行くか。二つに一つしかないというのに。臆病な自分に見切りをつけられるのは、いつになるのやら。
「……結局、俺も自分のことしか考えない奴でしかないんだな」
半ば嘲りにも似た呟きが、虚空に溶けて消えた。