いってらっしゃい帰らなくていいわ
「あー…あー、そっか。そうだよなぁ…」
独りごちつつ、臨也はテーブルに目を留める。
中身の入る部分を下にして置かれた二組の茶碗とコップ、綺麗に揃えた二組の箸と共にあるのは、自分のリクエスト通りで、想定以上の出来映えのメインディッシュ。冷め切っているのが本当に勿体無い。
きっと、キッチンの炊飯器と鍋、冷蔵庫の中にも、それは見事な顔触れが揃っているに違いない。そして、
「…悪かったね」
それを前に睡眠に耽る波江の姿は、臨也の歪んだ心を、僅かではあるが、温かい何かで柔らかく包んだ。
そっとテーブルの角に近づくと、しゃがんでみる臨也。覗き込んだ寝顔は、初めて出逢ったあの時以上に、美人に感じられた。
暫し、夢に身を置く波江を見つめた後、臨也は今後の行動を思案する。
波江に毛布を掛けてやって、それから御飯を温め直して食べる。いや、どうせ食べるなら波江と一緒が…でも、よく眠ってるし。もしかして、まずは波江をベッドに運ぶべきなのか…。
そんなささやかな、世間では幸せと呼ぶような時間は、情け容赦の無い機械音に終わりを告げられた。
ピリリリ、ピリ…ピリリリ、ピリ…ピリリリ、
「………う"ー、わー……はああぁ…」
仕事相手、しかも最上級の客からの連絡である。
深く深く嘆息しつつも、臨也は瞬時に営業スマイルを貼りつけた。波江に背を向けるように立ち上がり、懐の携帯電話を取り出す。
「もしもし。ああ、四木さん。こんばんわ、いつもお世話になっております。こんな時間にどうなさいましたか。…ええ、ええ………はい、それは至急の対応が必要ですね。やだなぁ、迎えなんて結構ですよ。お忙しいんでしょう?大通りに出ればすぐ………」
すらすらと言葉を交わしつつ、ちらりと未だ眠り続ける波江とテーブルを見遣った。多少の罪悪感を覚えるも、冷静に、舞い込んだ緊急の仕事と天秤に掛ける。
結果は、火を見るよりも明らかだった。
「タクシー代?そんな、申し訳ないですよ。…え?………いや、いやいや、迷惑だなんてとんでもない!あはは、何を仰るんですか。お引き立て頂いて、大変光栄ですよ。…はい、では代金についてはお言葉に甘えさせて頂きます。三十分後にいつもの所で。失礼致します。………」
相手が電話を切るのを待った後、丁寧に終話ボタンを押しつつ、臨也は苦笑を浮かべた。
―参った、ちょっと誤魔化し切れなかったな。
どうやら、このタイミングでの呼び出しへの負の感情が、言葉の端々に滲んでしまっていたようだ。やはり、あの日脳内にこだましたサイレンは正しかったのだろう。
いつか、これが、命取りになりかねない。
―しかし、
「それなら、それで…俺は…、うん。本望かも知れないよ。…波江…?」
困ったような、嬉しいような、悔しいような、そんな微笑を湛えて、臨也は仕事を全うすべく、踵を返した。
小さく、けれどはっきりと「行って来ます」と言い残して。
♂♀
「……………早く行きなさい、全く」
その叱咤は、照明を落とすスイッチの音とドアの開閉の音に重なるように発された。だから、鈍く遠ざかる駆け足の主が耳にすることはない。
勿論、わざとだ。
「馬鹿ね、本当に」
とっくに目覚めていた波江は、一部始終を理解している。臨也の大きな独り言も、急な依頼のおよその内容も、それを断るわけがないことも。
(一応の)寝顔を見つめられたことも。
自分に向けられた声が、言葉達が、いつもの百万倍、優しさを帯びていたことも。
―私も、本望かも知れない。そう伝えたら、貴方はどう思うのかしら。
だから、波江は玄関を、その先を見つめる。そして、敬意とひとつまみ程の感謝と、小さじ一杯程の喜びを込めて、ひとひらの台詞を贈ったのだった。
『いってらっしゃい帰らなくていいわ』
(あ、なーみえー!)
(!)
(帰ったらすぐに食べるから、捨てたりしないでね!ラップもしておくように!95点の所以はそういうところだったりするんだよ?じゃ、今度こそ行って来まーす)
(…死ねば良いわ)
作品名:いってらっしゃい帰らなくていいわ 作家名:璃琉@堕ちている途中