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なんだかんだで僕はこの状況を楽しんでいたし、徐々に懐いてくれている彼との関係も、心地よかった。もう少しだけ居続けたいと思っていたし、帰る場所があるのに手放し難いと思いつつあるのは、誤魔化しきれない僕の本心だった。
「…アンタ、一体いつ向こうに帰るんだろうな」
「さあね。何?さっさと帰って欲しい?」
「そうじゃないけど…」
「けど?」
「なんでもない」
「…そう、」
俺もそっちに行ければ良いのに。
そう小さく呟いた、聞かせるつもりのない彼の本音に、だから僕は応える事が出来なかった。唯その代わりに、明日も笑っておはようと彼に一番に言ってあげようと、そう誓った。
そうやって微妙な関係を保ちつつ、刻一刻と日々は過ぎ去っていく。あれ以来この事は暗黙のルール宜しくタブーと化してしまい、一度たりとも話題に出ていない。
そして僕は彼が意外にも寂しがり屋で甘えたがりだという事を知る。それを必死で身体の奥底に押しやってはいるものの、ふとした拍子に垣間見る事が出来た。
変わった事といえばもう一つ。あれ以来彼はよく僕を観察する様になった。観察、というよりも監視、の方が正しいのかもしれない。家に居る間はちらちらとこちらを横眼で良く見てくる。目が合うとすぐに逸らされるそれは、けれども暫くするとまた再開し始める。
流石にこれでは仕事がし難い。やり難くはあるが――悪い気はしない。
しかし、困った。これでは帰るに帰れない。帰り方など未だに分からないままだけれども。
ところがその日は唐突に訪れた。それは本当に突然で、何の準備も心積もりも無かった僕は、少しだけ慌てた。
せめてもの救いは彼が傍に居た事だろうか。急に居なくなったら流石に彼も吃驚するだろうし、世話になった礼くらいは僕も言いたい。
けれども視界に映った彼は凄まじい顔をしていた。目の前の出来事が信じられないといった様な、若しくはまるでこの世の終わりに立ち会ったかの様な表情で僕を凝視している。
「…嫌だ」
「オドロキくん、」
「嫌だ嫌だ嫌だ!…っなんで、なんでどうして!みんな、みんな俺の前から居なくなっちまう…!」
悲痛な叫びだった。これが彼が抱える闇なのか。初めて目の当たりにするそれに胸が痛む。
出来る事ならずっと傍にいたい。いてあげたい。―――でもそれは、叶わぬ事なのだ。ならばせめて。刹那的でもほんの僅かな光でもいい。一歩間違えば枷になるかもしれない賭けを、嘘偽りない真実を、彼に、あげよう。きっとそれは、裏を返せば僕自身のエゴでしかないのだろうけれど。
そっと口を開く。相手を刺激しないように、なるだけ穏やかな声音を作り出す。
「ならないよ。…少なくとも、僕は。大丈夫、今はちょっと離れるけど、またすぐに会えるよ。本当だ。――何ならヤクソクでもするかい?」
「……要らない。そんなもの、守るっていう保証がどこにあるんだ」
頑なな拒絶の言葉は、けれどずっと居て欲しいという気持ちの表れでもあった。
結局のところ、彼は根が素直で単純故に悪になりきれないままで、だからこうして己の心情を惜しげもなく全身で訴える。こんな時なのに思わず笑ってしまった。
「…そう。じゃあ、これだけは覚えておいて。――絶対に」
「何言って……ッ、アンタ…!」
「ん?ああ、もう本当にサヨナラみたいだね。身体が透けてきてる」
告げた瞬間、ぎゅうと強い力で腕を掴まれた。それに苦笑しつつ、彼の額に一つ、やんわりと唇を落とす。驚きと羞恥で見上げた彼の眸を真っ向から受け止めて、もう一度、やわらかな口付けを施す。そうしてもう一度、目を合わせる。―――彼のこの眼が、とても好きだ。それは今も昔も変わらない。
目の前の彼の両の眸には今は透明な膜が張っていたけれど、それでもその強さは変わらない。それをひどく好ましいと思う。
その想いのままゆるりと頬を撫であげた。滑らかな肌は彼に相応しい温度を伴って指先から伝わってくる。それがとても愛おしく、そして少しだけ物悲しい。
身体はもう既に肩の位置まで透け始めていた。歯を食いしばって涙を流すまいと必死で耐える彼を慰めてあげたいけれど、それもどうやら出来そうにない。僕に出来るのは、最後の言葉を残す事だけ。
―――願わくば、これが枷ではなくキミの希望となりますように。
「忘れないで。覚えておいて。―――好きだよ。僕は、キミが、好きなんだ。とてもね」
end.