失われる摂理
麗らかな春の、暖かな日の事だった。陽射しは燦々と、けれども穏やかに室内へと降り注ぎ、じんわりとした温もりを齎す。
静かな空間に平穏を妨げるものは何一つなく、だからか、羽毛で包まれたかの様な暖かさに王泥喜はついうっかり、寝入ってしまった。
それはこの陽気に当てられた所為ではあるのだが、仮にも成人し社会人として職を全うする身としては、これは非常に宜しくない。以前の職場なら身も凍る様な報いが王泥喜を待ち構えていた事だろう。考えただけでゾッと悪寒が背中を駆け上がる。そして不運な事にこの部屋には王泥喜以外にももう一人、人が居たのだ。彼は昔の上司ほど口煩くはないだろうが、それでも失態には違いない。咎めの一つや二つは受けるだろう。
己の身を正すように慌てて起き上がる王泥喜を、然しその人物――成歩堂は、王泥喜の予想を裏切り穏やかな眼で彼を見ていた。そうしてその表情のまま徐に手を伸ばし、王泥喜の髪をくしゃりと撫ぜる。
仄かな温度と重みが心地好さを伝え、王泥喜はパニックを起こした。ガチリと岩のように固まり、頭は真っ白に塗り潰され思考そのものが停止したかの様に動かない。
驚愕に目を見張る王泥喜を余所に、成歩堂はゆっくりとその手を離した。
思わず離れた温もりを寂しがるかの様に目で追い掛け、慌てて視線を逸らす。然し横目でチラリと覗いた成歩堂は、そんな王泥喜の挙動には気付いてはいない様だった。それに大きな安堵と、ほんの僅かな不満を覚える。
「よく寝てたね」
「す、すすす済みません!」
「まあ良い天気だしねえ」
別段咎める気は無いのか皮肉めいた台詞とは裏腹に、成歩堂の口調はとても穏やかだった。
「あの、俺、仕事に戻りますね」
成歩堂の珍しい態度に居たたまれなさを覚え、王泥喜は首を竦めてそれだけを何とか告げる。妙に早口になってしまったが、そんな事を気にする余裕など今の王泥喜にはない。急いでくるりと回り、成歩堂へ背を向ける。
「うん、頑張ってね」
そそくさとその場を去ろうとする王泥喜に向けられたのは、ひどくやわらかな愛情だった。
「今日もお疲れ様です、王泥喜さん!」
日溜まりの温もりが過ぎ去り、茜色の陽が部屋に差し込む時分になった頃、みぬきが勢い良く扉を開け放ち王泥喜へと声を掛けた。
明るく快活とした存在が部屋へと足を踏み入れただけで、緋色に染まり何処か殺伐とした空間が一気に鮮やかな熱を持つ。
払拭された静寂に安堵しつつ、王泥喜はみぬきに笑顔を返した。
「おかえり、みぬきちゃん。プリンあるから着替えておいで。その間にご飯作るから」
「わあ、プリン!さっすが王泥喜さん!有難う御座います!」
嬉しそうにはしゃぐみぬきを目を細めて見送り、はたと気付く。今の自分の行動は、誰かと被ってはいないだろうか。否、行動というよりも、そこに付随する感情こそが、同じではなかっただろうか。
浮かび上がった疑問を肯定するかの如く、昼間の情景がまざまざと思い出される。成歩堂が己へと向けた目は、慈愛にも似た視線の意味は、要するに、こういう事なのだろうか。
ぐるりと回る思考回路を遮る様に王泥喜は頭を一つ振り、部屋を出る。ざわりと騒ぐ心の内は、敢えて見ない振りをした。
然しそんな王泥喜を嘲笑うかの様に、其処には、彼が居た。
静かな空間に平穏を妨げるものは何一つなく、だからか、羽毛で包まれたかの様な暖かさに王泥喜はついうっかり、寝入ってしまった。
それはこの陽気に当てられた所為ではあるのだが、仮にも成人し社会人として職を全うする身としては、これは非常に宜しくない。以前の職場なら身も凍る様な報いが王泥喜を待ち構えていた事だろう。考えただけでゾッと悪寒が背中を駆け上がる。そして不運な事にこの部屋には王泥喜以外にももう一人、人が居たのだ。彼は昔の上司ほど口煩くはないだろうが、それでも失態には違いない。咎めの一つや二つは受けるだろう。
己の身を正すように慌てて起き上がる王泥喜を、然しその人物――成歩堂は、王泥喜の予想を裏切り穏やかな眼で彼を見ていた。そうしてその表情のまま徐に手を伸ばし、王泥喜の髪をくしゃりと撫ぜる。
仄かな温度と重みが心地好さを伝え、王泥喜はパニックを起こした。ガチリと岩のように固まり、頭は真っ白に塗り潰され思考そのものが停止したかの様に動かない。
驚愕に目を見張る王泥喜を余所に、成歩堂はゆっくりとその手を離した。
思わず離れた温もりを寂しがるかの様に目で追い掛け、慌てて視線を逸らす。然し横目でチラリと覗いた成歩堂は、そんな王泥喜の挙動には気付いてはいない様だった。それに大きな安堵と、ほんの僅かな不満を覚える。
「よく寝てたね」
「す、すすす済みません!」
「まあ良い天気だしねえ」
別段咎める気は無いのか皮肉めいた台詞とは裏腹に、成歩堂の口調はとても穏やかだった。
「あの、俺、仕事に戻りますね」
成歩堂の珍しい態度に居たたまれなさを覚え、王泥喜は首を竦めてそれだけを何とか告げる。妙に早口になってしまったが、そんな事を気にする余裕など今の王泥喜にはない。急いでくるりと回り、成歩堂へ背を向ける。
「うん、頑張ってね」
そそくさとその場を去ろうとする王泥喜に向けられたのは、ひどくやわらかな愛情だった。
「今日もお疲れ様です、王泥喜さん!」
日溜まりの温もりが過ぎ去り、茜色の陽が部屋に差し込む時分になった頃、みぬきが勢い良く扉を開け放ち王泥喜へと声を掛けた。
明るく快活とした存在が部屋へと足を踏み入れただけで、緋色に染まり何処か殺伐とした空間が一気に鮮やかな熱を持つ。
払拭された静寂に安堵しつつ、王泥喜はみぬきに笑顔を返した。
「おかえり、みぬきちゃん。プリンあるから着替えておいで。その間にご飯作るから」
「わあ、プリン!さっすが王泥喜さん!有難う御座います!」
嬉しそうにはしゃぐみぬきを目を細めて見送り、はたと気付く。今の自分の行動は、誰かと被ってはいないだろうか。否、行動というよりも、そこに付随する感情こそが、同じではなかっただろうか。
浮かび上がった疑問を肯定するかの如く、昼間の情景がまざまざと思い出される。成歩堂が己へと向けた目は、慈愛にも似た視線の意味は、要するに、こういう事なのだろうか。
ぐるりと回る思考回路を遮る様に王泥喜は頭を一つ振り、部屋を出る。ざわりと騒ぐ心の内は、敢えて見ない振りをした。
然しそんな王泥喜を嘲笑うかの様に、其処には、彼が居た。