失われる摂理
「やあ王泥喜くん。お疲れ様」
「…お疲れ、様です」
成歩堂は常と変らぬ態で王泥喜へと視線を投げ掛けた。不意打ちにドキリと心臓が鳴る。
「ところで僕の分のプリンは?」
「ありませんよ、そんなの」
「気の利かない子だな。僕にも用意しといてよ」
「アンタ一体幾つですか…」
「じゃあパパ、みぬきのを一口あげる!はい、あーん!」
仲睦まじい彼らのやりとりも、今や見慣れたものだ。目尻を下げ、ゆるりと笑う成歩堂の姿に、彼が父親だという事を再認識させられる。
彼の慈しみを湛えた眸が好きだ。けれど、それは―――。
「王泥喜くん?」
ふいに声を掛けられ、我に返る。王泥喜は慌てて頭を左右に振った。
「へ?あ、お、俺!ご飯!そう、ご飯作ってきますね!」
駆け込む様に狭い台所へと走り、大きく息を吐く。我ながら不審な行動だと思ったが、それよりもあの目に見抜かれたかと思うと、気が気ではなかった。
「王泥喜くん、一体どうしたの?」
ふいに背後から掛けられた声に、心臓が飛び出る程驚く。思わずビクリと跳ねた己の肩に、内心舌打ちをしつつ、王泥喜は恐る恐る振り向いた。
「急に駆け込むから、吃驚したよ。何かあった?」
「別に、何も…」
「そう?何だか物欲しそうに見えたけど」
「そ…んな、事は…」
「無い、と言い切れる?」
静かな音は、確信めいた響きを持っていた。
眇められた眸は鋭いナイフの様に王泥喜へと切りかかり、威圧感を与える。
圧され、身動き一つ取れなくなった王泥喜は絶望に満ちた目で成歩堂を見返した。
「どうしてそんな目をしてるのかな」
「…そんなって、どんなですか」
「そういう目だよ。気付いてない――って事はないか」
苦し紛れに張った予防線も、次の瞬間には突破されている。王泥喜は戦慄き、歯噛みした。
自分でも気付いていない、或いはその振りをして奥底へ押しやり燻っているものを、否応なく暴かれ晒される恐怖は、筆舌に尽くし難い。そっとしておいて欲しいという切実な懇願めいた願いを、成歩堂はいとも簡単に切り捨ててしまう。王泥喜は泣き叫びたくなった。
「どうしてキミは、素直に受け取れないのかな」
「そんな事はありません」
「じゃあどうして、自分にはそれが与えられないと思ってるの?」
静かに問われた声音に、王泥喜は答える事が出来なかった。ただ俯いて、唇を噛み締める。
「僕はキミが好きなのに。―――でも僕がキミに愛情を注ぐ事は、キミにとって、苦痛なのかな」
「そんな事はありません!」
思わず必死で叫んでいた。ハッと我に返り成歩堂を窺い見ると、彼は驚いた様に目を丸くし、けれど次の瞬間にはやんわりと笑んでいた。
「良かった。面と向かって嫌だとか言われたら、どうしようかと思ったよ」
「成歩堂さん…」
「僕はみぬきと同じくらい、キミの事も大事だと思ってるよ」
穏やかに告げられた事実に、王泥喜は鈍器で殴られたかの様な衝撃を受けた。知りたくもなかった真実を心構えもないままに放り投げられ、絶望に浸る。己の運命を呪い、形振り構わず泣きたいと心底思ったのは、生まれて初めての事かもしれない。
―――腕輪が、反応したのだ。
成歩堂が愛する娘と同じだと、大事だとそう告げた瞬間、腕輪が王泥喜の腕を締め付けた。
それは酷く脆弱で、常ならば見逃していただろう。それを敏感に感じ取ったのは、偏にこの状況がさせたのではなく、己の心の向き方にある。自分が彼の一挙手一投足を、見逃す筈はないのだ。仮令それがとても些細な事であったとしても。