ナイフケース越しの
「じゃあ、先ずはそうだなぁ、働いてる所に電話して?『シズちゃんは急用ができたのでこれから仕事に戻れませーん』って」
「……」
楽しげな声がうわんうわんと響く廃ビルの、清々しいほど突き抜けた屋上はもう見えなかったが、そろそろ日も暮れただろう。見た目だけならば女が引っ掛からなくもない個性のなさ故の美しさを、その前面だけで愉悦を演じている顔を照らす光は色を透明なものに変えて弱々しく降っている。
「……?何黙ってんの?恋の駆け引き?え、そうなの?うわあ恥ずかしいよシズちゃん、やめてよ、駆け引きの通じないところがシズちゃんの良いところだって言うのに」
「お前が黙れ」
折原がいつまでも自分の頭の上に手を置いている所為で、嫌が応にも縮まった距離から紡がれる無垢然とした毒舌はペテン染みていて大嫌いだ。
嫌々先輩に電話を掛けると、「トムさん」と一言呼びかけた声の調子から大体何があったのか悟られてしまった。そして早上がりを許可してくれた先輩はなんて出来た人だろう。
折原の手は相変わらず何かを握ったまま、静雄の頭からうなじ、肩甲骨の間を辿って腰まで降りる。何が楽しくて、などと思っても、意味は無い。与える敗北感と浸る優越感・常人逸した性的欲求の充足、何よりも平和島静雄を苛立たせることの最終形態として自分を抱かせるという選択肢を取るような男の何が自分に理解できるだろうか。
「じゃあ今日は、俺がシズちゃんから右手を離せないっていう縛りプレイとかどうかな」
未だ静雄の肌に温かさは触れていない。どんなに恋人を模したように向き合っても、折原と自分の間には何か固く冷たいものがある。それは誰かの牽制であり保身であり、だからこうして向き合う時間が存在する。
折原は、自分が勝ったそのときに、どんな顔をしてこちらを見るのだろう。
或いは。
もしも静雄が奇跡的に丸い性格になって、折原に反発するでもなく、受け流すか、まして受け入れたとき、折原は世界に対して興味を失うのかもしれない。
失ってしまえ、と願うのは安い事で、自分が折原を受け入れるという条件が付いて回る以上それはあり得ない。
愛している、と言うに憚らない、折原の人間に向けているらしい愛が形を変えることは、折原が終わるまでないだろう。こちらが変わる時、までは。
「いいものやるっていうのは」
「ああ、うん、俺のことだけど?万がぁ一、っにもシズちゃんが、勝てば、俺をボコボコにできる。いつも、みたいにシズちゃんが負け、ても俺を、この……折原臨也を抱けるんだよ?」
「お前、大概にしねぇと、ハメ殺すからな」
折原の右手が、静雄の心臓の裏で笑うように震える。肌に触れた無機物も一緒に揺れた。