ナイフケース越しの
自覚はある。
これは殆どお決まりのゲームなのだ。
折原に会いたくないのなら会わなければいい。折原は時々、徒に己の居場所を静雄に送る。静雄は今日こそあの薄ら笑いを消してやろうと会いに行く。
折原を潰すことが静雄にとっての勝利。勝機がなくなれば負けだ。
負けたときは――。
「っていうかさ、シズちゃん」
雑踏の中でもきっと聞き逃さない声で、一番癪に障る呼び方で、折原は静雄に呼びかけた。
「やめろっつってんだろその呼び方」
「うん?ああそれについてはひょっとしなくても考えておかないよ。で、そうそう、俺も君と話す為には此処からだと実は障害があるから、ねえ、其処動かないで、ねっ」
空中に黒い影が舞った。のを、追おうとした眼が、振り仰いだ茜色の眩しさに反応を鈍らされる。飛んだ影は折原の投げたナイフだった。
間髪を容れず飛び降りてきた折原を叩き落とし損ねたのは静雄にとって一生の不覚だ。まして、アクロバティックな動作などなくまるで降り立つように着地した折原が、片手を自分の頭の上に載せていたことに一瞬気付けなかったことも、一生の不覚だ。逆光が静雄の仇になっていたのは、つまり折原に有利に働いていたのは、恐らく計算済みなのだろう。
「――なにしやが」
「はい黙って」
カァン、と音を立てて折原の投げたナイフが廃屋の床に転がる。静雄も、その持ち主も、それには微塵も目をくれずに向き合っていた。
「っ」
髪越しに堅さと冷たさがあった。不自然な体制で固まったまま折原を睨みつける。折原の手と、自分の頭頂部の間に、掌より少し小さな、ところどころ鋭利ななにかがある。動きを止めた静雄を見て、折原はまた満足そうに笑った。
「……恐怖、を辞書で引いたことはある?不安、恐れ、威圧感を感じること。人間は昔から敵わないものを恐れるように出来ているのさ。火、然り。破壊力、然り。炎に触れたらどうなるのか、擬似体験で知っている、だから恐れられる。小さな頃に火傷をした経験は誰にだってある筈だ。君の暴力も人間にとってはそうなるんだろうね、シズちゃん。でも恐怖にはもう一つ、正体の分からないものへのそれがある。暗闇だとかが幽霊だとか、人によれば宇宙人なんかも恐怖の対象になるのかな?未知のもの、正体の分からないもの、底の知れないもの、そんなものに人は恐怖を抱く。だって何されるか分からないって怖いじゃない」
「何が言いたい」
「シズちゃん、今怖いでしょう?俺が持ってるの何だと思う?暗器?はたまた小型爆弾?もしかしたら頭吹っ飛ぶかもしれないんだもんね。『例え腹にナイフが5ミリしか刺さらないシズちゃんでも、頭なんかは鍛えたこと無いだろう?あ、コレ二重の意味でね』」
聞いた台詞を寸分違わす繰り返して折原が静雄の眼を覗きこむ。
「暴力的なものへの恐怖も未知の物への恐怖も今君はその頭上に一点に集めて乗せられている。だから君は今恐怖の中に居るに違いない」
「ふわふわなのはその年中変わり映えのしねぇコートのファーだけにしとけよノミ蟲」
「えー?まあ認めたくないならいいけどね。今日も俺の勝ち」
「……クソッ」
――分かっていたことではあった。
あの一瞬、逆光に目が眩んだ時点で負けてたのだ。
「君に同じ手はそう何度も通じないって分かってるけどさ、今日のは傑作だと思うよ。勿論君の頭の上にあるものが何かなんて喋ってやらない」
「ああそうかよ」
げんなりしながら煙草を引っ張り出すと、ライターでこの黒髪燃やしてやろうかと思いつつも実行せずに火を点けた。勝負は終わったのだ。