お伽話の結末
夕食が終わり、しかし寝るには早い時刻。スガタが居候をしているタクトの部屋を訪れたのはほんの気まぐれだった。
何か不自由なことはないか。何か入用なものはないか。
せっかく一緒にいるのだ。この機会にもっと彼と関わりを持ちたい、あわよくば甘やかしたいと思うのは、目下よからぬ想いを彼に抱いているからだ。恋は下心とはよく言ったものだ。
「タクト、今ちょっといいか」
ノックをしても返事がない。寝ているのか、それとも部屋に居ないのか。しかし扉の隙間からは中の明かりが漏れているし、気配も感じる。
「タクト?」
もう一度ノックをしてみても返事はない。無礼だとは思いつつもゆっくりと扉を開ける。
「入るぞ、タクト」
案の定、タクトは中に居た。入浴後まだ髪を乾かしていないのだろう、頭にはタオルが覆われ、薄い桃色のパジャマの肩口は髪から落ちる雫で濃く滲んでいる。そんな姿のまま、タクトはベットの上に座りながら一心に何かを読んでいた。パジャマから覗く指先が、慈しむように何かをなぞっている。
表情はタオルで見えないが、熱心に読んでいることは分かる。その証拠にスガタが部屋に入ってきても気づかずに微動だにしない。まるで小さな子供のようで微笑ましく、知らず口角が上がる。パタクトに宛がった部屋自体がスガタが幼い頃使っていた部屋なので、壁の落描きや棚に並べられた玩具、この空間全体が余計に幼さを演出している。
「何かに熱心になるのはいいが、そのままだと風邪を引くぞ」
近付きながら声をかければ、薄い肩がぴくりと上がった。ゆっくりと顔が上がる。
「……タクト? どうしたんだ?」
その両目には水の膜が張っていた。水の膜は『涙』と云われるそれで、スガタを映した途端、ほろりと崩れ落ちる。呆然とその光景を見ていれば、あまりに情けない顔をしていたのか首を傾げられた。
「どうしたの、スガタ。面白い顔になってるよ」
自分の涙には何も触れず、気付いてもいないように微笑まれれば、硬直していた身体に自由が戻る。
「どうしたはこっちの台詞だ。何があった」
なるべく自然に、しかし強い口調で問いながらベットの縁に腰掛ける。答えは返ってこない。ただ、不思議そうに首を傾げられる。
「泣いているじゃないか」
「え?」
途惑うように、タクトが自身の頬に触れる。そして、そこを伝う涙に驚いたように目を見開く。気が付いていなかったのかと、スガタは何故か居たたまれない気持ちになった。
「何か嫌なことでもあったのか?」
ふるりと首を振られ、俯かれる。声に出さないのは話したくないという意志の表れか。それでもその涙の訳を知りたいと思うのはスガタの意思だった。何か気の利いた言葉を言えたらと思うが、上辺だけの薄っぺらい言葉に聞こえてしまいそうで怖かった。
彼を前にすると、言葉一つにさえ臆病になってしまう自分が居る。
「タクト」
だから、その分の想いを込めて名前を呼ぶ。
「タクト」
それでも伝わらないなら手を伸ばす。ベットの上に座り込むタクトと同じ視線、けれども警戒させない程度の距離を保っていた。
もどかしく思っていたその距離を伸ばした腕が零にする。
「タクト」
湿ったタオルの上からそっと頭を撫でれば、ひんやりとした温度が伝わってきた。このままでは冗談ではなく風邪を引いてしまう。撫でながら、そのまま髪を拭いてやれば、タオルの下からぽつぽつと声が聞こえる。
「本を読んでたんだ」
「本?」
「これ」
差し出されたのは一冊の絵本。読み込まれたもので、本の角は丸くなり、表紙は小さく破けている部分もある。その部分はセロテープで直されていて、持ち主が大切にしていたことが伺える。見覚えがあるこの絵本は、間違いなくスガタが幼いころ読んでいたものだった。
「人魚姫」
この絵本のことはよく覚えていた。許婚でもある幼馴染が「人魚姫にはなりたくないな」と言っていて、印象的だったからだ。
タクトの髪を拭く手を休め、ぺらぺらとページを捲っていけば、途中途中に落書きがされてあった。王子の絵には「スガタ」、王子を介抱したお姫様には「ワコ」と書かれている。そして、人魚姫には誰の名前も書かれていない。
「この文字、僕とワコの文字だ」
幼い文字に触発されて、昔の記憶が呼び起こされる。いつも童話に出てくるお姫様に憧れていた彼女が悲しげな表情をして言うものだから、「ワコはこっちのお姫さまになればいい」と、最後は王子と結ばれる人間のお姫様を指差し、そこに彼女の名前を書いた。彼女は笑い、それならと、王子のところにスガタの名前を書いたのだ。
懐かしい本だが、これがタクトを泣かせたのだろうか。
「ただ、読んでただけなんだ。そしたら、スガタとワコの名前を見つけて」
タクトの声に抑揚はなかった。感情をうかがわせない声なのに、スガタの心臓をじくりと疼かせる。
「そしたら、涙が出たみたい」
タクトは小さく笑いながらスガタを見た。上手く笑えている自信は無かったが、笑わなければまた涙が溢れてきそうだった。
「ねぇ、スガタ。人魚姫は王子にとって何だったのかな」
首を傾げながら問いかける様は、スガタにこのまま壊れてしまうのではないかと思わせる程ひどくいとけない。
王子にとって人魚姫は一体何だったのだろう。妹のような存在だったのだろうか。それとも友人のような存在だったのだろうか。
自分を慕ってくる彼女を、王子はどんな風に思っていたのだろう。
「人魚姫が泡になって消えたこと、王子は気付いたのかな。ちゃんと王子は、お姫様と幸せになったかな」
そうだったらいいな、とタクトは笑った。
「何となくだけど、今なら人魚姫の気持ちが分かる気がするよ」
スガタはタクトの腕を掴んで引き寄せた。
「どうした、スガタ?」
言いたい事は沢山あるのに言葉が出ない。ただ腕の中のひんやりとした熱をきつく抱きしめる。
笑顔でも泣き顔でもどちらでもいいから、これ以上冷たくならないで欲しかった。ぬくもりと一緒にその心まで零れ落ちてしまいそうだったから。
人魚姫のように、泡になって消えてしまいそう、だなんて。
そう、思ってしまうほど、儚い温度。
「スガタ」
宥めるように背中を叩かれる。これではどちらが慰められているのか分からない。首筋に顔を埋めれば、湿った髪と冷えた温度が伝わってくる。
「スガタ、泣いてる?」
「泣いてない」
「そっか」
「泣いてるのはお前の方だろう」
身体を離して向き合う。
間近にある紅い両の眼は潤んではいたものの、雫となって零れることはなかった。
「泣いてないよ」
「そうだな」
言いながら、その目じりを袖で拭う。
糊のきいたシャツの袖口は固いので、柔らかい皮膚は仄かに紅くなる。
「スガタ、痛い」
「そうか」
それでも拭う動作はやめない。
「あんまりスガタが擦るから、泣けてきたじゃん」
「悪いな」
ほろほろと落ちてくる涙を拭っていく。袖口が冷たくなる。
その冷たさが愛しくて仕方がなかった。
スガタの袖をパジャマから出た指先がそっと握る。その指先を握れば僅かに温かい。
「今日はもう寝ろ」
「うん。そうする」
何か不自由なことはないか。何か入用なものはないか。
せっかく一緒にいるのだ。この機会にもっと彼と関わりを持ちたい、あわよくば甘やかしたいと思うのは、目下よからぬ想いを彼に抱いているからだ。恋は下心とはよく言ったものだ。
「タクト、今ちょっといいか」
ノックをしても返事がない。寝ているのか、それとも部屋に居ないのか。しかし扉の隙間からは中の明かりが漏れているし、気配も感じる。
「タクト?」
もう一度ノックをしてみても返事はない。無礼だとは思いつつもゆっくりと扉を開ける。
「入るぞ、タクト」
案の定、タクトは中に居た。入浴後まだ髪を乾かしていないのだろう、頭にはタオルが覆われ、薄い桃色のパジャマの肩口は髪から落ちる雫で濃く滲んでいる。そんな姿のまま、タクトはベットの上に座りながら一心に何かを読んでいた。パジャマから覗く指先が、慈しむように何かをなぞっている。
表情はタオルで見えないが、熱心に読んでいることは分かる。その証拠にスガタが部屋に入ってきても気づかずに微動だにしない。まるで小さな子供のようで微笑ましく、知らず口角が上がる。パタクトに宛がった部屋自体がスガタが幼い頃使っていた部屋なので、壁の落描きや棚に並べられた玩具、この空間全体が余計に幼さを演出している。
「何かに熱心になるのはいいが、そのままだと風邪を引くぞ」
近付きながら声をかければ、薄い肩がぴくりと上がった。ゆっくりと顔が上がる。
「……タクト? どうしたんだ?」
その両目には水の膜が張っていた。水の膜は『涙』と云われるそれで、スガタを映した途端、ほろりと崩れ落ちる。呆然とその光景を見ていれば、あまりに情けない顔をしていたのか首を傾げられた。
「どうしたの、スガタ。面白い顔になってるよ」
自分の涙には何も触れず、気付いてもいないように微笑まれれば、硬直していた身体に自由が戻る。
「どうしたはこっちの台詞だ。何があった」
なるべく自然に、しかし強い口調で問いながらベットの縁に腰掛ける。答えは返ってこない。ただ、不思議そうに首を傾げられる。
「泣いているじゃないか」
「え?」
途惑うように、タクトが自身の頬に触れる。そして、そこを伝う涙に驚いたように目を見開く。気が付いていなかったのかと、スガタは何故か居たたまれない気持ちになった。
「何か嫌なことでもあったのか?」
ふるりと首を振られ、俯かれる。声に出さないのは話したくないという意志の表れか。それでもその涙の訳を知りたいと思うのはスガタの意思だった。何か気の利いた言葉を言えたらと思うが、上辺だけの薄っぺらい言葉に聞こえてしまいそうで怖かった。
彼を前にすると、言葉一つにさえ臆病になってしまう自分が居る。
「タクト」
だから、その分の想いを込めて名前を呼ぶ。
「タクト」
それでも伝わらないなら手を伸ばす。ベットの上に座り込むタクトと同じ視線、けれども警戒させない程度の距離を保っていた。
もどかしく思っていたその距離を伸ばした腕が零にする。
「タクト」
湿ったタオルの上からそっと頭を撫でれば、ひんやりとした温度が伝わってきた。このままでは冗談ではなく風邪を引いてしまう。撫でながら、そのまま髪を拭いてやれば、タオルの下からぽつぽつと声が聞こえる。
「本を読んでたんだ」
「本?」
「これ」
差し出されたのは一冊の絵本。読み込まれたもので、本の角は丸くなり、表紙は小さく破けている部分もある。その部分はセロテープで直されていて、持ち主が大切にしていたことが伺える。見覚えがあるこの絵本は、間違いなくスガタが幼いころ読んでいたものだった。
「人魚姫」
この絵本のことはよく覚えていた。許婚でもある幼馴染が「人魚姫にはなりたくないな」と言っていて、印象的だったからだ。
タクトの髪を拭く手を休め、ぺらぺらとページを捲っていけば、途中途中に落書きがされてあった。王子の絵には「スガタ」、王子を介抱したお姫様には「ワコ」と書かれている。そして、人魚姫には誰の名前も書かれていない。
「この文字、僕とワコの文字だ」
幼い文字に触発されて、昔の記憶が呼び起こされる。いつも童話に出てくるお姫様に憧れていた彼女が悲しげな表情をして言うものだから、「ワコはこっちのお姫さまになればいい」と、最後は王子と結ばれる人間のお姫様を指差し、そこに彼女の名前を書いた。彼女は笑い、それならと、王子のところにスガタの名前を書いたのだ。
懐かしい本だが、これがタクトを泣かせたのだろうか。
「ただ、読んでただけなんだ。そしたら、スガタとワコの名前を見つけて」
タクトの声に抑揚はなかった。感情をうかがわせない声なのに、スガタの心臓をじくりと疼かせる。
「そしたら、涙が出たみたい」
タクトは小さく笑いながらスガタを見た。上手く笑えている自信は無かったが、笑わなければまた涙が溢れてきそうだった。
「ねぇ、スガタ。人魚姫は王子にとって何だったのかな」
首を傾げながら問いかける様は、スガタにこのまま壊れてしまうのではないかと思わせる程ひどくいとけない。
王子にとって人魚姫は一体何だったのだろう。妹のような存在だったのだろうか。それとも友人のような存在だったのだろうか。
自分を慕ってくる彼女を、王子はどんな風に思っていたのだろう。
「人魚姫が泡になって消えたこと、王子は気付いたのかな。ちゃんと王子は、お姫様と幸せになったかな」
そうだったらいいな、とタクトは笑った。
「何となくだけど、今なら人魚姫の気持ちが分かる気がするよ」
スガタはタクトの腕を掴んで引き寄せた。
「どうした、スガタ?」
言いたい事は沢山あるのに言葉が出ない。ただ腕の中のひんやりとした熱をきつく抱きしめる。
笑顔でも泣き顔でもどちらでもいいから、これ以上冷たくならないで欲しかった。ぬくもりと一緒にその心まで零れ落ちてしまいそうだったから。
人魚姫のように、泡になって消えてしまいそう、だなんて。
そう、思ってしまうほど、儚い温度。
「スガタ」
宥めるように背中を叩かれる。これではどちらが慰められているのか分からない。首筋に顔を埋めれば、湿った髪と冷えた温度が伝わってくる。
「スガタ、泣いてる?」
「泣いてない」
「そっか」
「泣いてるのはお前の方だろう」
身体を離して向き合う。
間近にある紅い両の眼は潤んではいたものの、雫となって零れることはなかった。
「泣いてないよ」
「そうだな」
言いながら、その目じりを袖で拭う。
糊のきいたシャツの袖口は固いので、柔らかい皮膚は仄かに紅くなる。
「スガタ、痛い」
「そうか」
それでも拭う動作はやめない。
「あんまりスガタが擦るから、泣けてきたじゃん」
「悪いな」
ほろほろと落ちてくる涙を拭っていく。袖口が冷たくなる。
その冷たさが愛しくて仕方がなかった。
スガタの袖をパジャマから出た指先がそっと握る。その指先を握れば僅かに温かい。
「今日はもう寝ろ」
「うん。そうする」