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はがね、くちびる

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工場は真田の記憶そのままであった。塀沿いに裏手に回る。工場主の住まいである小さな一軒家の、トタンの壁の錆がひどい。真田はその赤黒いしみのような模様をじっと見つめ、そうしてぎゅっとまぶたを閉じた。踵を返す。工場の門扉に手をかける。錆びてはいるが、油の差されている蝶番はスムーズに真田の手の動きに従った。早朝で、従業員はまだ出社していないのだろう。工場の中で旋盤はひっそりとその重たいからだをさらしていた。足音を忍ばせてその機械に近づき、ひんやりとした機体にてのひらをのせる。金属の塊は真田の体温をすぐに奪った。油のにおいと金属のにおいが真田を包む。皮膚の、細胞の隙間からからだの中に入り込んで心臓を犯すようだ。
 しばらくそうして旋盤の前に佇んでいると、背後で砂利を踏む音がした。今日は休みだぜ。そう真田に投げかけられた声にはっと背筋を震わせた。振り返ると、あの日、新地の裏路地にいた男が出入り口に佇んで真田を見つめている。……島津のおっさんならいねえよ。男はそう言って、じっと真田を見つめてくる。履き潰して穴のあいたデニムに、アンダーシャツというかっこうの男は片手に拳銃をぶら下げて目を細めた。こともなげに開けたくちびるからあくびがこぼれる。ガシガシと寝ぐせのついた髪をかいた。
 今そうしてあっちやそっちに跳ねている黒い髪は、あの日、きちんと整えられて真田の目の前にあった。黒い革ジャンとカーゴパンツに包まれたからだは、旋盤で削りたてのバネのように軽やかであった。もうすぐ春がこようかという少し冷える夜の、北新地である。真田は午後七時から零時までと決められたクラブでのバイトを終え、店の裏手にゴミを出しにゆくところであった。革靴が非常階段をカンカンと叩く。革靴が地面を踏んだとき、Hey、と裏路地に涼やかな声が響き渡った。見れば、とろりとした夜の底に白い顔が浮かんでいる。アンタ、ナイトゲートのバイトだな? 男はそう言って、瞬く間に真田との距離を詰めた。真田の頭の先から足先までじろりと見回して、小首を傾げる。
 真田は一瞬息を止めたが、すぐに男から目をはなしてゴミ袋を掴んだ手に力を込めた。そうして男に背中を向けた途端、すぐにぞっと、冷たいもので背中を撫でられたような心地がする。踏み出そうとした革靴の足の裏は地面に貼りついてしまって動けない。真田は瞠目して自分の爪先を見つめたが、しかしぴくりとも動かぬそれに息を飲んだ。なあ、松永って中にいるか?男の声が背中にぶつかる。真田はようよう首をねじって、その白い顔を視界にうつした。途端に自由になる己のからだが恨めしい、と思う。
 白い顔の上で、前髪に隠されていない左目がすっとほそまった。それは笑顔といえるものだろうか、と真田は思う。男の顔の中で左目だけが表情をうつし、鼻や口元はピクリとも動かなかった。隠されている右目などは論外である。白目と黒目のくっきりとした左目はまっすぐに真田を射た。とろりとした裏路地の照明が男の顔を照らしている。ふとその黒目が縦に少し長いように見えて、真田はそっと息を飲んだ。なにか人ならざるものを見てしまったような、恐ろしい気持ちであった。
 松永って、いるか。男はまたそう言って、店の入っているビルの三階を見上げた。真田はようやく首を横に振ってみせる。……知りませぬ。男は真田の口調にとうとうその不動の眉毛をはね上げた。シリマセヌ?初めて聞いた言葉だとでもいうように口の中で転がして、パチパチと瞬きをする。それは、松永を知らないって意味か?それとも松永がいるかいないかを知らないってこと? 真田は小さく首を振って、ゴミ袋を握る手に力をこめた。
 松永と、約束があるんだけど。当の本人に言えばいいのに、と真田は思った。ゴミ袋を引きずる真田の横に男は並んで、その歩調に合わせてくる。……そなたは、その。うん?と男は真田の顔を覗き込んだ。そうして不動だった口元を歪ませる。殺し屋って言って、アンタは信じる? はっとして真田は男の顔を見返した。殺し屋、ともう一度男は言って、歩みを止める。そうして男の白い顔はすっと夜に溶けた。
 松永、と呼ばれていた初老の男がナイトゲートで射殺されたのは、それからちょうど一週間後のことであった。午後十時。そのときドリンクを運んでいた真田は、後ろから早いリズムで床を叩く革靴の音を聞いた。その音はやがて真田を追い越してしまう。その背中は真田と同じボーイの制服に身を包んで、右手に拳銃を下げていた。白い衿の上で、中途半端に伸びた黒い髪が揺れていた。その背中が奥のソファの前で止まり、その右手の拳銃が座った男に向けられるのを、銃声を、飛沫上がった血と、悲鳴、真田を突き飛ばした手の強さ、そういうものがいっとき真田の胸に迫った。今、目の前でそのときの殺し屋が味噌汁をすすっている。
 花の模様の描かれたテーブルクロスは手垢で薄く汚れている。男の持っていた拳銃はそこになんの違和感もなく置かれていた。殺し屋はその横で白飯と大根と油揚げの味噌汁、塩鮭の朝食をとっている。一言も喋らず米粒をかきこむ姿を前に真田はからだを緊張させた。伏せたまぶたの下の、あの縦に長いような黒目の様子を思い浮かべた。視線はそうしてその横の黒い拳銃に吸い寄せられる。台所に設置された窓は埃で覆われているためにそこから入り込んでくる光もどこかかすれていた。それにもかかわらず、その黒い塊はぎらぎらと光る。……興味あんのか、大学生のくせに。男は低くそう言って、前髪の向こうから真田を上目に見つめてくる。真田はすっと顎を引いて、もう大学は辞め申したと返した。殺人現場に居合わせたことで、いや、この男に出会ったことで、それまでに少しずつずれていた歯車の噛み合わせが完全にずれてしまっていた。男は真田の口調に少しだけ笑って、味噌汁を飲み干した。
 男は米粒一つ残っていない茶碗をさっさとシンクに沈めると、拳銃を手にとって二階へと上がって行った。真田もまたその背中を追う。古い階段は男二人の体重をのせてギシギシと軋んだ。男は奥の襖を開けると、さっさとその中に入って行ってしまう。真田がその中を覗き込むと、狭い四畳半の半分を薄いせんべい布団がしめていた。茶色い卓袱台の上にコップと、緑茶のペットボトルが置かれている。灰で汚れた灰皿はあるが煙草のパッケージはなかった。ライタのみがペットボトルのかたわらに転がっている。
 座れよ、と男は言った。座布団なんてものはないようだった。真田は焼けた畳の上に腰をおろして胡坐をかく。男は半分ほど残っているペットボトルを揺らせて、飲むかと示した。真田は小さく首を振る。そうすると、男はその中身を一気に喉に流しこんだ。のけぞったその首の真ん中でびくびくと動く骨の様子に真田は見入った。
作品名:はがね、くちびる 作家名:いしかわ