りりりん
侘助が言葉に詰まる。不機嫌そうな顔を理一から背けるが、手だけはまだ理一の掌の中にあった。掴まれている手首の皮膚に、厭な感じに汗が溜まってべたつきはじめている。
「お前の商売道具は頭と手だろう、侘助」
「……治ってんだからいいじゃねーか」
はあー、というこれ見よがしな理一のため息が侘助の耳にちくちくと刺さった。
「お前は、何というか、本当に侘助だな」
見透かすような言葉が、実際に侘助の心の中を見てきたような声色で紡がれる。侘助は侘助で溜め息を吐きたくなった。理一は、昔からこういうところで察しが良い――良すぎる。だから、この、自分の掌の異常に歪な形になって残っている傷がどういう理由で歪であるのかも、察しているのだろう。あの、流す様に自分の手を見た一瞬の間に、しょうがないね、と言わんばかりのやさしい笑いの下で。
降りかけた沈黙は、突然に鳴いた蝉の声で打ち消された。真夜中にどうして蝉が鳴くの?と、初めての長野の夏を迎えた自分に答える栄の声が思い出される。「あれは、羽化したばかりの蝉の鳴き声だよ。」
蝉の鳴く音は直ぐに、失敗したようにぶつりと途切れて終わった。同時に理一がふっと雰囲気を緩める。侘助はいつの間にか詰めていた息を理一に悟られぬようにこっそりと吐き出した。
「おばあちゃんがお前に与えてくれたのもなんて山ほどあるのに、お前はそのなかでも一番美しいものを選ぶのだから、欲張りだよ」
「……お前の感性の基準も、未だに分かんねえ」
嘘だった。本当は、分かっていた。
ただ、彼女が残してくれたものを、自分は悉く駄目にしてしまった。掛けて貰った言葉はその大半を忘れてしまっていたし、金になるものはとっくに換えてしまった。最後に彼女が自分に贈ったのは痛みを伴うものであったけれど、それは痛みの分だけ憎まれていたのかもしれないが、それだけ想われていたのだと錯覚してしまえば、――我ながらどんなに彼女の事を好いていたのかと笑ってしまうが――これはこの上ない“しるし”になった。
口の端で無意識に笑みを作っている侘助を、理一は見て見ぬふりをしておいた。その代わり、昔よくした、静かに咎めるような口調で侘助を窘める。
「嘘を吐くと叱られるぞ」
「誰に」
「俺に」
「あー、黙れ」
当然、おばあちゃんに、と言う言葉を予想していた侘助は、真顔でそう宣った理一に剣突を食わし、いい加減血が通わずに痺れてきた手にぐいと力を込めた。
「もういいだろ、離せ」
「そうだな――」
理一は、とん、と手をついて侘助の方に傾き、自然な動作で侘助の手を、噛んだ。
「った……!」
親指の付け根の肉の厚い部分に理一の歯が僅かに食い込む。皮膚に尖ったものが押し付けられる痛みより、歯がごりっと滑って骨を押した事の方が痛かった。
「何してやがる。商売道具だってのに」
「どうせ傷めた手だろう」
「ばあちゃんは特別だ」
黒い黒い、深淵のような二つの目が自分を見た。だから、そういう目をするから、お前はいつまでも俺の中で浮いているのだと、いつかの夏の日に侘助は組み敷いた理一に向かって吐き捨てた。
理一は無言で侘助の手を解放した。侘助が見ると、手にはくっきりと歯型が付いている。
「ありえねえ……」
ズボンに手を擦りつけながら侘助は立ち上がった。すると、理一が自分の名を呼ぶ。
「侘助」
わびすけ。わびすけ。
りいん、りいん、と鳴き続ける鈴虫の声と同じになった理一の声は、いつ終わったのか侘助には分からなかった。ひとりでに頭の中で繰り返された声が、自分の名を何度も読んだ所為で、侘助はまた、夏のある日まで意識を持っていかれる心地がした。
すきでも嫌いでもない、理一。
何かを振り払うようにして振り向くと、ぽんと煙草を放られた。放物線を描くそれを、空中で横から掴み取る。
「何のつもりだ?」
「情報料、だろう?」
別に、あの深淵のような目で聞かれたら、答えないことなど殆ど無いのだけれど。理一はいつまで経っても基本的なところで律儀で、予想もつかないところで突き抜けていて、だから、――だから、分からない。
侘助は理一の煙草を持ったまま、独白のような調子で言った。
「今なら『会いに来い』ってことになるのか、なんて」
いつもは唯我独尊な侘助らしからぬ答えだった。それはどこか侘助の願望が含まれているのだ、と理一は知っていた。
「……曲解もそこまで行くと清々しいな、侘助」
呆れている様子の割にはとても楽しそうに理一が言うので、侘助もつられて皮肉気に笑った。