ずぶぬれ
今からちょうど二年経つ。はじめて太子と隋に行った時のこと。
「あっ!! 雨降ってきましたよ太子、巾着の中に傘はいってるのでさしてください」
「はーあぁ。分かったよ」
何故か無造作に手が動いてしまう。オールを持つ手が止まることはなかった。雨は強くなるばかりで、川の水かさも今に増えそうな勢いだ。周りにはまだ休めるような岸もないし、ここはとにかく先を急ぐしかない。
「あれ、妹子……傘どこにも入ってないんだけど」
「えぇ!? ……あっ、もしかしてさっきの民家に置いてきちゃったのかも!」
もうずぶぬれを覚悟しなきゃいけないか。それよりも太子がぬれてしまう。二人して風邪なんてひいてたら、せっかくやってきた遣隋使の旅もパーだ。
「すみません太子。僕もちょっとうっかりしていました。何か傘の代わりになるものは……」
何もなかった。太子はさっきから何も言い返してこない。「このダメ男」とか「イモ」とか怒鳴られるのかと思っていたので意外だった。
もう、こうなったら……
「太子、僕のジャージ貸しますから、頭にかぶっててください。このまま先急ぐ他ないですよっ」
オールを置きファスナーを下げようとしたその時だった。その手をパシッと止められる、手と手がぶつかる音がした。
「摂政の勘はなぁ、結構鋭いんだぞ妹子。ちょっと手を止めてよっく聞け、この摂政の勘αによると、雨はあと少しで止む。通り雨だから、たぶん」
「でっでも太子風邪ひいちゃいますよ!ちょっとでもかぶってたほうがいいですって!」
太子は少し真剣な面持ちで、心配したような顔で身を乗り出した。
「そしたら妹子だって風邪ひくだろ!? それよりもっ!」
「えっ!? ちょっと太子っ」
船が揺れる。僕は両腕をつかまれていることに気付いた。太子はさっき僕がいたところに座っていて、僕はちょうどその下にへたりこんでいた。押し出されたって…この人にそんな力があったとは思いもしなかった。オールも床に投げ出されてるし、一体何なんだろう。
「妹子、腕ふるえてる」
「えっ、あっ……ほんとだ……」
寒いのと急がなくちゃという気持ちで我を忘れていたみたいだった。太子に言われてからやっと気付いた。指がかじかんで痛い。腕も疲れきっているようだ。全身に少し重みがかかる。寒いのと痛いのとでぼんやりしてきたのかもしれない。とても眠い。
「大丈夫ですよ、これくらい。僕は太子に風邪ひかれるほうがいやですからっ。……後で面倒くさそうだし……」
わざと悪態をついた。イラッときた太子はすぐに僕の手を離すだろう。
「そんなこと言ってても体はいろいろと悲鳴あげてんだよ。妹子、オール貸せ。私がこいでやるから。妹子は本当に役立たずなんだから全く」
「嫌ですっ! 役に立ちますよっ」
思いっきり腕をはらってやった。ほんと腹が立つ。普段はアホみたいにさわいでるくせに、僕に頼ってくるくせに、こういう時ばっかり優勢に立ちやがって。
「私はお前を心配してるんだぞっ!?」
「いつもちゃらんぽらんなクセにこんなときにばっか心配したなんてほざかないでくださいよっ!僕はいつもどおりにやり過ごすなんてこと今すぐにできるんですから、あんたは僕を頼っていてくれれば、それで……」
太子も相当疲れているようだ。薄く笑うと、「何で」と静かに口にする。
「なんで妹子はそんなにまでして私を守りたいなんて思うんだ?」
「っ……それは、あんたの部下だからに決まってるでしょ」
「ふーん」と太子はあごに手を当てる。
本当は違う。僕は、僕は……。
「じゃあ言うけど妹子、そんなボロボロのボロ人形みたいになってちゃあ、私のこと守れるわけ無いじゃん。お前、自分の体のことも知らないで他人のこと守ろうなんて生意気なこというなよ。倒れそうになってまで『部下だから』なんてほざくなバーカ」
ムカつく。思いっきり立ち上がって怒鳴った。
「あんたは仮にも摂政なんだから風邪ひかれたらこっちもこっちで迷惑だって言いたいんですよ僕はっ!!」
太子は尚も僕の腕をつかむ。そしてまた床にへたり込んでしまう。
「本当は違うのに?」
「な……っにがですかっ!?」
「私を守りたいなら、私の言うことも聞け妹子」
完全に疲れきったその体は相変わらず止まない雨でぐっしゃりと濡れていた。腕は太子につかまれたままだったが、僕は太子に背を向けうずくまってしまった。
「ああ……そうですか。じゃあ僕はもう、これっきり動きませんからね」
太子は一人だけ晴ればれとした笑顔で「それでいいんだよ、このイモが」と言う。
太子がそこまで言うものなら、僕は少し休んだほうがいいのか、と小さく息をしてうずくまっていた。でも、頼る・頼られるの立場が逆転していることを考えると、なぜだかとても納得いかない気分だ。
突然、ほのかにぬくもりを感じていた腕をつかむその手が離された。そしてそこは、雨の雫がパタリと落ちただけでもつららにでも突き刺されたかのように痛みが走り、ちょっとだけ声を上げてしまいそうになって、あわてて口を塞いだ。やっぱり……僕は……
右腕を抱きかかえ、自らでそれを押さえようとして苦い笑みを浮かべる。僕がこんなこと言うのなんて柄でもない、でも今は、寒いし痛いし、どうしようもないけど……っ。噛んだ唇は、はじめて自分が震えていたことを実感させた。
「た……いし、太子っ……」
「なんだぁ妹子?」
太子の方から少し満足げな声がかえってくる。が、そんなことは気にしていられなかった。寒くて寒くて、今すぐにでも死んでしまいそう。しかし、少しだけ躊躇する気持ちは残ったままだった。……うつむいてボソリといってみる。
「まことに……失礼、しますが……太子の腕で僕を温めてくれませんか?」
「妹子? それってどーいう……ちゃんといってみ、ほら!!」
ブッ飛ばしたい。本当は、分かっているクセに。わざと言っているみたいだった。肩にその温かな指が触れる。指は背にまわり、つーっと腰をなぞっていく。それで、こんなことでもどかしくなって叫んでしまった僕も馬鹿だったのかもしれない。
「太子、それで……その腕でっ、僕を抱いて温めて下さいッ!」
「ムキになっちゃって、全く。妹子はかわいいなぁ」
僕はワケが分からなくなってしまったみたいだった。そして、太子は床に腰を降ろすと僕に覆いかぶさるようにして、その腕の中に僕を抱いてくれた。あったかい、いや、熱い……。でも、それが一番心地良かった。今まで寒さにさらされていた体が包まれていく。ワケが分からなくなっていたのと、ムキになっていたのと、疲れが溢れ出して、形のないそれらの感情は代わりに涙となって零れ落ちた。そして、太子はゆっくりと口にしたのだ。
「妹子、私、お前のことが好きだ。前からずっとこうしてやりたいと思ってた。好きだからって、いっつも甘えてばっかりじゃだめだって思ってた。……私じゃだめ、かな?」
「あっ!! 雨降ってきましたよ太子、巾着の中に傘はいってるのでさしてください」
「はーあぁ。分かったよ」
何故か無造作に手が動いてしまう。オールを持つ手が止まることはなかった。雨は強くなるばかりで、川の水かさも今に増えそうな勢いだ。周りにはまだ休めるような岸もないし、ここはとにかく先を急ぐしかない。
「あれ、妹子……傘どこにも入ってないんだけど」
「えぇ!? ……あっ、もしかしてさっきの民家に置いてきちゃったのかも!」
もうずぶぬれを覚悟しなきゃいけないか。それよりも太子がぬれてしまう。二人して風邪なんてひいてたら、せっかくやってきた遣隋使の旅もパーだ。
「すみません太子。僕もちょっとうっかりしていました。何か傘の代わりになるものは……」
何もなかった。太子はさっきから何も言い返してこない。「このダメ男」とか「イモ」とか怒鳴られるのかと思っていたので意外だった。
もう、こうなったら……
「太子、僕のジャージ貸しますから、頭にかぶっててください。このまま先急ぐ他ないですよっ」
オールを置きファスナーを下げようとしたその時だった。その手をパシッと止められる、手と手がぶつかる音がした。
「摂政の勘はなぁ、結構鋭いんだぞ妹子。ちょっと手を止めてよっく聞け、この摂政の勘αによると、雨はあと少しで止む。通り雨だから、たぶん」
「でっでも太子風邪ひいちゃいますよ!ちょっとでもかぶってたほうがいいですって!」
太子は少し真剣な面持ちで、心配したような顔で身を乗り出した。
「そしたら妹子だって風邪ひくだろ!? それよりもっ!」
「えっ!? ちょっと太子っ」
船が揺れる。僕は両腕をつかまれていることに気付いた。太子はさっき僕がいたところに座っていて、僕はちょうどその下にへたりこんでいた。押し出されたって…この人にそんな力があったとは思いもしなかった。オールも床に投げ出されてるし、一体何なんだろう。
「妹子、腕ふるえてる」
「えっ、あっ……ほんとだ……」
寒いのと急がなくちゃという気持ちで我を忘れていたみたいだった。太子に言われてからやっと気付いた。指がかじかんで痛い。腕も疲れきっているようだ。全身に少し重みがかかる。寒いのと痛いのとでぼんやりしてきたのかもしれない。とても眠い。
「大丈夫ですよ、これくらい。僕は太子に風邪ひかれるほうがいやですからっ。……後で面倒くさそうだし……」
わざと悪態をついた。イラッときた太子はすぐに僕の手を離すだろう。
「そんなこと言ってても体はいろいろと悲鳴あげてんだよ。妹子、オール貸せ。私がこいでやるから。妹子は本当に役立たずなんだから全く」
「嫌ですっ! 役に立ちますよっ」
思いっきり腕をはらってやった。ほんと腹が立つ。普段はアホみたいにさわいでるくせに、僕に頼ってくるくせに、こういう時ばっかり優勢に立ちやがって。
「私はお前を心配してるんだぞっ!?」
「いつもちゃらんぽらんなクセにこんなときにばっか心配したなんてほざかないでくださいよっ!僕はいつもどおりにやり過ごすなんてこと今すぐにできるんですから、あんたは僕を頼っていてくれれば、それで……」
太子も相当疲れているようだ。薄く笑うと、「何で」と静かに口にする。
「なんで妹子はそんなにまでして私を守りたいなんて思うんだ?」
「っ……それは、あんたの部下だからに決まってるでしょ」
「ふーん」と太子はあごに手を当てる。
本当は違う。僕は、僕は……。
「じゃあ言うけど妹子、そんなボロボロのボロ人形みたいになってちゃあ、私のこと守れるわけ無いじゃん。お前、自分の体のことも知らないで他人のこと守ろうなんて生意気なこというなよ。倒れそうになってまで『部下だから』なんてほざくなバーカ」
ムカつく。思いっきり立ち上がって怒鳴った。
「あんたは仮にも摂政なんだから風邪ひかれたらこっちもこっちで迷惑だって言いたいんですよ僕はっ!!」
太子は尚も僕の腕をつかむ。そしてまた床にへたり込んでしまう。
「本当は違うのに?」
「な……っにがですかっ!?」
「私を守りたいなら、私の言うことも聞け妹子」
完全に疲れきったその体は相変わらず止まない雨でぐっしゃりと濡れていた。腕は太子につかまれたままだったが、僕は太子に背を向けうずくまってしまった。
「ああ……そうですか。じゃあ僕はもう、これっきり動きませんからね」
太子は一人だけ晴ればれとした笑顔で「それでいいんだよ、このイモが」と言う。
太子がそこまで言うものなら、僕は少し休んだほうがいいのか、と小さく息をしてうずくまっていた。でも、頼る・頼られるの立場が逆転していることを考えると、なぜだかとても納得いかない気分だ。
突然、ほのかにぬくもりを感じていた腕をつかむその手が離された。そしてそこは、雨の雫がパタリと落ちただけでもつららにでも突き刺されたかのように痛みが走り、ちょっとだけ声を上げてしまいそうになって、あわてて口を塞いだ。やっぱり……僕は……
右腕を抱きかかえ、自らでそれを押さえようとして苦い笑みを浮かべる。僕がこんなこと言うのなんて柄でもない、でも今は、寒いし痛いし、どうしようもないけど……っ。噛んだ唇は、はじめて自分が震えていたことを実感させた。
「た……いし、太子っ……」
「なんだぁ妹子?」
太子の方から少し満足げな声がかえってくる。が、そんなことは気にしていられなかった。寒くて寒くて、今すぐにでも死んでしまいそう。しかし、少しだけ躊躇する気持ちは残ったままだった。……うつむいてボソリといってみる。
「まことに……失礼、しますが……太子の腕で僕を温めてくれませんか?」
「妹子? それってどーいう……ちゃんといってみ、ほら!!」
ブッ飛ばしたい。本当は、分かっているクセに。わざと言っているみたいだった。肩にその温かな指が触れる。指は背にまわり、つーっと腰をなぞっていく。それで、こんなことでもどかしくなって叫んでしまった僕も馬鹿だったのかもしれない。
「太子、それで……その腕でっ、僕を抱いて温めて下さいッ!」
「ムキになっちゃって、全く。妹子はかわいいなぁ」
僕はワケが分からなくなってしまったみたいだった。そして、太子は床に腰を降ろすと僕に覆いかぶさるようにして、その腕の中に僕を抱いてくれた。あったかい、いや、熱い……。でも、それが一番心地良かった。今まで寒さにさらされていた体が包まれていく。ワケが分からなくなっていたのと、ムキになっていたのと、疲れが溢れ出して、形のないそれらの感情は代わりに涙となって零れ落ちた。そして、太子はゆっくりと口にしたのだ。
「妹子、私、お前のことが好きだ。前からずっとこうしてやりたいと思ってた。好きだからって、いっつも甘えてばっかりじゃだめだって思ってた。……私じゃだめ、かな?」