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な忘れそ

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 顔に降りかかるアレの血は、温かだった。真田はそっと窓を仰ぎ見る。真夜中である。そうして、わずかな明かりに照らされて床に広がってゆく黒い液体を見つめた。真田の足先には大きな石がはめ込まれた指輪が転がっている。円卓には、王の趣味で集められた様々な玉が散らばっていた。わずかな明かりにきらりとそれが光る。血がまばらにそれらを汚した。豪奢な王の寝室は、その持ち主を失くして一気に色を失っていた。真田はいっとき瞼を閉じる。治世は、八十年であった。
 王の治世には幾つか転機があるという。一つ、統治を始めて十年、二つ、人間としての寿命が過ぎたあたり、三つ、三百年ほど経過した時期。いかに有能な官僚団を編成して統治を始められるか、本来の寿命を過ぎても生きることへの欲求を失わずにいられるか、失道しない限り永遠に王として国を統治してゆかねばならぬという重圧に耐えられるか否か。……王は即位した時点で四十歳を過ぎていた。それでいえばそのどれにも当てはまらないのだろう。その治世八十年は順風万端だったと言っていい。元地方官だった彼はその手腕をもとに官僚の編成にも成功していた。緻密な、正道にもとった法治国家を作るという気概に溢れていた。半獣に対する法的差別も事実上彼が撤廃したようなものである。その点で、真田は今自分が手にかけた男にたいして感謝をせねばならぬ。……だがここ十年、王が国の統治に飽いていることは誰の目にも明らかであった。その興味は国から、民から離れ、玉に移った。国庫の中の宝物に飽き足らず、方々から珍しい玉や宝物を運ばせては日がなそれを眺めているという。議論を重ねるべき朝議にもからだの調子が悪いと言って出席せず、ここ最近はその全てを冢宰に委任していた。それだけならばまだよかった。ここ一年、王宮に不審な死が多い。その全てが施政に興味を失った王を窘める発言をした者ばかりであった。辻斬りのように現れるそれを恐れて、最近ではもう王にものを言う人間など王宮にはいない。使令を血で汚された台輔の顔色は誰の目にも悪かった。これが失道というものかと真田は思った。やせ細った彼の首の、浮いた骨の様子、艶を失った黒の鬣。
 飽いた。真田はふとその言葉を舌の上で転がせた。飽いたというのならば手放せばよかったものを、と考えた。右手に持った冬器がやにわに重くなった。王の血を吸ってか。ふと真田は笑う。いずれにせよ弑さねばならなかったのだ。半獣の身を軽んじられることには慣れていたが、その俺を禁軍左将軍にまで推挙して下さった太師の死にまでは耐えられなかった。つい先日のことである。
 虚海に妖魔が沸き始めた。大司馬、王師三将軍を交えた軍議にて、神妙な顔つきの大司馬がこう呟いた。そのときの円卓に並んだ顔の白さを、真田は今でもありありと思い浮かべられる。ぎょっとした顔のうちに、諦観がじわじわと湧き始めた色。騎獣を妖魔と見間違えたのではないかという笑えない冗談は黙殺された。誰もが崩壊を実感として得ぬまま過ごしていたところに舞い込んできた、失道というかたちのあるものであった。……妖魔が出現したという集落は、真田の故郷に近い。地方州師に妖魔対策として伝令すべき通達をまとめ、その日の軍議はお開きになった。なにかに急かされるようにして一日の執務を終え、夜のうちに騎獣を駆った。
 故郷と言ってももう真田の家族・知己は生きてはいない。真田の住んでいた里にいるのは、それからさらに代替わりを重ねたひとのこらであった。仙になって歳を数えることを止めている。地方の官に禁軍左将軍の顔など知れている訳もなく、真田もまた己の身分を明かす気もなかった。その夜から一昼夜、騎獣とともに虚海に面したあたりをぶらついたが、妖魔の気配はまったくないまま、帰路につこうかと考え始めたときであった。
 置き手紙はしてあった。それを見た侍従が追いかけてきたのだろう。真っ青な顔をして、その日とった宿の前に佇んでいる。真田が如何と問う前に、彼はそのくちびるを開いた。声は出ずにガチリと歯が鳴った。そうして、太師が、と震える声で言う。
 だからこれは国のためではない、と真田は思う。私怨である。次には、この太刀で己が首をはねとばさねばならぬ。そう思って血でぬめる右手を力いっぱい握りしめた。そのときである。背後で扉の開く音がした。ギギ、という重たい音である。……弑したのか。掠れひび割れた声はまぎれもなく台輔のものだった。振り返れば、柱に寄りかかるようにして黒麒が立っている。麒麟には血のにおいは酷であろう。……お近づきになりませんよう、汚れまする。台輔はかすかに笑ったようだった。ひでえざまだ。
 そうして一歩を踏み出した台輔は大きく息を吐いて真田を睨みつけた。この薄闇にも、台輔の目はらんらんと光る。長い鬣に秘匿された右目は見えなかったが、その左目は正確に真田の心の臓を射た。ひでえざまだ。もう一度そう呟き、首を横に振った。なにかを振り払うように。
 真田はふと思い当って、左の手の甲で己の頬を拭った。べとりと血が貼りつく。もう血が乾き始めているのだろう、ところどころ皮膚がひきつれた。そうしている間にも台輔がゆっくり真田に近づいてくる。女の泣き叫ぶような声がし、真田はぎょっと麒麟の背後を見つめた。台輔のからだに、青白い腕が押しとどめるようにして絡みついている。女怪であろう。真田はもう一度、台輔の名を呼んで彼を窘めた。しかし強情な麒麟は言うことを聞かぬ。離せと叫び、とうとう女怪の腕を振り払った。その肩は喘ぐように上下している。血のにおいすら毒になりうる麒麟に、この部屋の空気はもはや容赦をしていない。真田はいっそ憐れんで台輔を見つめた。そうまでしてなにを望む。王の死骸にとりついて泣くというのか。しかしこれは麒麟を失道の病に落としいれた張本人である。彼の使令を、王宮を血で汚した張本人である。……落とした首は重たい音をさせて円卓の向こうへと転がって行ったために真田の目には見えないが、血の池に沈む胴体はすぐそこにある。
 恨まれますか。まろぶようにして真田の傍らに立ち、その胴を見下ろす台輔に真田はそう問いかけた。なにをだと台輔は応えた。そなたの王を殺したことを。台輔は少し考えるふうにくちびるを引き結んでいた。わずかな明かりにも顔の表情が判る。そういう距離であった。眼窩は落ちくぼみ、ふっくらとしていたはずの頬は無残に削げていた。着物で隠れてはいるが、皮膚の際に禍々しい色の斑点がある。失道の病はこれほどまでに重い。ふと、その細い体に垂れさがっている重たい鬣を撫でつけてやりたく思ったが、この手では触れられぬ。腰の横でぴくりと動かした腕の様子に気づいたか、黒麒はその鬣の向こう、らんらんと光る目に真田を映した。王は、麒麟のものじゃねえ。……では。国のものだ、民のものだ。しかして麒麟は王のものでござろう。
作品名:な忘れそ 作家名:いしかわ