空想
「確か戦時中の話だ。クジラというのは雌の方が雄より体が大きいのだが、その雄のイワシクジラは規格外に体が大きく誰にも相手にされずにたった一頭で海を彷徨っていた。人間の世界では日本が無条件降伏をした、そんな時だ。海底で息を潜める自分より大きな体の日本海軍の潜水艦を見つけ、雌と錯覚し、寄り添うようになるんだ」
艦長は目を細めて笑みのような、悲しみのような、不思議な色をその目に浮かべた。
戦時中、いや敗戦直後のの帝国海軍の潜水艦と鯨という全く組み合わされない組み合わせに多少興味を持ち、いよいよ艦長の気まぐれに付き合おうというつもりで話を聞こうとスプーンを置いた俺を他所に、艦長はそこで話を止めてしまった。艦長は黙って弄んでいた最後の一口のジャガイモをスプーンで優雅にすくって口に入れてしまうと、話はそこで終いだとばかりにナプキンで口を拭ってしまった。
「艦長、そこまで話しておいて止めるのはナシですよ」
艦長は目だけで俺を見た。
その黒々とした大きな目がにっと歪む。興味を持っただろう?とその目が言っている。
そんな目をされてしまえば内海のように無邪気に、素直に「続きが知りたいです」なんて言えない俺は黙った。そんな俺の性質はとっくに理解しているだろうに艦長はトレイを持って立ち上がった。
「まずはお前の答えを聞いてからにしよう。お前の想像した、異質なものを愛してしまった鯨の結末をぜひ私に聞かせてくれ」
弄ばれていたのはジャガイモではなく、俺だったらしい。艦長は「楽しみにしているからな」と機嫌の良いことを言って、にっこりとまるで役者のような調子の良い笑みひとつ残して艦長はさっさと行ってしまった。はぁ、と溜息を漏らして、俺は知らずに頭を抱えた。
なんの面白みも、柔軟な発想も持ち合わせていない俺という男は、恋なんてしたことがなかった。
時折俺のこの性格を「落ち着いている」「大人っぽい「安心できる」なんて言って言い寄ってくるような女がいて、彼女たちの流れに流されるまま「こんなもんなんだろう」となんとなくで付き合いを始め、そうして「そういうものなんだろう」と女を抱いたような、そうして大人になったような男だった。トレンディードラマというものが走りの時代だったが、ドラマの中で俳優が言うような芝居がかった台詞なんて逆立ちしても出てこない、出てくるはずもない俺は失望された。そして、そういう女が求めているのは「山中栄治」という男ではなく、俺のような堅物とも言える性格の男なら守ってもらえるとか、自分だけ特別になりたいとか、そういう曖昧な形のないしかしはっきりとした希望だと悟ったが、それは俺も相手に漠然とした通過儀礼を求めたのだから、仕方のない事だった。そういう男だった。
そんな俺が、どうして鯨と潜水艦の恋だなんて突拍子もない話の結末を思い浮かべられるのだろうか。
艦長室へ一日の報告へ顔を出すと、艦長はクラシックを聴いているところだった。
ベートーヴェンのの交響曲第7番の第2楽章だ、と機嫌よく教えてくれたが俺には無縁の世界だった。艦長は椅子に腰掛け、目を閉じ、黒く濡れたアスファルトの上にじわりじわりと玉虫色に光る重油が流れ出てくるような音楽に耳を傾けていたが、俺はただ黙ってその前に立ち、艦長の気の済むようにしていたが、内心ではいつあの「宿題」の続きを艦長が口に出すのか億劫に思っていた。しばらくそのベートーヴェンの交響曲とやらを黙って聞いていれば、いよいよ艦長が口を開いた。
「答えは出たか?」
「私には、貴方が望むようなユーモアのセンスはありません」
あらかじめそうきっぱり言ってしまおうと用意しておいた言葉に、艦長は一瞬目を瞬きさせたかと思えば、「あっはっは」と何が可笑しかったのか声を立てて笑い始め、眉を寄せた俺とは裏腹に無邪気な声を立てた。その子供のように軽快な笑い声と、この染み出るような交響曲があまりにもミスマッチで、それでいて内心馬鹿にされたような気分でこの若く新しい上官の気まぐれに付き合わされねばならない事にうんざりした。しばらく一人で笑っていたかと思えば、艦長は肩を震わせて、またあの、強い光を帯びた、俺の苦手な目だけを上目遣いに俺に向けた。
「誘ってるつもりだったんだがね」
艦長は、白い歯をにやりと見せ、目を細く歪めて笑った。
――――――その瞬間、ずるっと捕らえられた。
艦長の黒い目が俺を見上げている。
その目から真意を捉えようとしたが、その目には何の意志もないように見えて、だが実際は意志の坩堝だ。色んな感情が入り乱れたその瞳孔を覗き見るというのが、まるで深い井戸の底を覗き込んだような気にさせられた。「想像力だ、山中」艦長の形の良い唇が声もなくそう動き、深い井戸の底へと冷たい夜の空気が飲み込まれ、井戸を覗き込む俺の両肩に触れる風の力に俺はそのまま艦長の中をより深く覗き込もうと身を乗り出し、するともう駄目だった。俺はこのやまなみの副長である地位もなにもかもを失い、丸腰で、無知で、無力な子供になってしまった。「空想はC調だ」と艦長の唇が動き、あの教室がふっと蘇る。声を上げて楽しいことを楽しげに話す同級生たち。あの小さな手をいっぱいに伸ばして、頭上に輝くその人生に訪れるであろう素晴らしいこと全てを掴み取ろうと目を輝かせて色鉛筆を握る手。パステルカラーのそれらの風景は、しかしスローモーションで、どこか遠く、俺を除いて広がっていく。目の前に広がる真っ白な紙。ざらざらとした厚く乾いた真っ白な画用紙。転がる鉛筆。意味のない消しカス。宙に浮いていくような疎外感。援護飛行のできない俺。名前のない機体。ぬるぬると汗ばんだ握り締めた拳。乳房。女の肌の匂い。―――黒く冷たい海。
「山中」
はっとした瞬間、自分の瞳孔が開ききっているのを感じた。
艦長は目を細くゆがめて微笑んだ。
「想像力を持って考えるんだ。お前が何をできるのか。お前は何をするべきなのか。お前がしたことがどうなるのか」
立ち上がった艦長とはもう目が合っていないはずなのに、俺はまだそこに艦長が座っているようなつもりで椅子を見下ろしていた。艦長が、座っている。いや、座っていない。ふいに耳元で声がする。艦長の声だ。目の前の艦長が微笑ながら、ゆったりと足を組み替える。いや、背後の艦長がそっと囁く。目の前の艦長の唇が動く。
「山中、私がこれから話すことを、想像力を持って聞いてほしい」
その日、艦長は俺にやまと計画の話を持ち出した。
ニューヨークの病院の一室。
眠る艦長の肉体を見下ろしながら、あの小説の結末をようやく知った事を艦長に告げた。艦長の目元が微笑んだような気がした。俺の妄想かもしれない。艦長は脳死なのだ。死んでいるというのだろうか。死んでいくというのだろうか。脳が死んでいる。それならば、精神が死んでいる俺はそれでも生きているのだろうか?眠る艦長の手を俺は握り締めた。艦長が俺の手を握り返した。俺は微笑んだ。――――生きている。
「その鯨の血で赤く染まった海を見て潜水艦の人間は生きる事を決意した」