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hush-a-bye,baby

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「いい天気だなあ」
 横から聞こえた、没個性的挨拶文の見本のような台詞を流して、僕は水のたっぷり張られた桶を引き寄せた。さっき汲んで来たばかりのそれは澄んでいて、この季節に相応しく、凛として冷たい。
「絶好の小春日和だね。素晴らしい秋晴れ、高い空、蜻蛉の舞う庭。なんという秋の日! こう言う日は秋刀魚でも焼いて食べたいと思わないか、秋刀魚に絞る酢橘、芸術的かつ食欲を刺激する馥郁たる香り! ああ素晴らしきかな秋刀魚、秋の味覚万歳!」
 手に取った手拭いを水桶に沈めると、みるみるうちに水を吸って重みを増す。それをゆっくりと水から引きあげる。無駄に滔々と淀みない口上は秋刀魚に対する愛で満たされているようだったけれど、もしかしておなかがすいてるのかなあ。
「雷蔵ってば! 反応してお願い!」
「え? ああごめん、聞いてなかった。今は」
「今はって! それまでは意図的に聞き流してたの!?」
「あはは。だからそう言ったじゃない」
「雷蔵ひどい!」
 三郎は他にも何かまくしたてようとしていたようだけれど、僕が一瞥するとぴたりと黙った。それから、気まずそうにそろそろとこちらを伺ってくる。悪戯がばれたあと、親の機嫌を取ろうとしている子どもみたいだ。
 僕は嘆息して、手拭いの水を絞る指に力を入れた。僕にしては、割と丁寧に絞ったつもりだ。三郎の几帳面さには及ぶべくもないけれど。
 僕は水桶を少し枕元から離し、横たわっている三郎の額に、二つ折りにした手拭いを乗せた。ちょっと触れただけでも、彼の体の中で相当の熱が暴れているのがわかる。三郎は元々の体温が低いから、余計だろう。
「雷蔵……」
 三郎の声は、まだ恐る恐るといった調子だった。
「はい」
「あのうもしかして、怒ってらっしゃいますか……」
「僕が怒ってないと思ってた?」
 三郎は絶句した。もそもそと避難するように布団の中に口元を埋めている。本当に小さいこみたいな仕草だ。

 珍しく別々の組で実習を受けた彼が、けがをしたということはわかっていた。
 先に報せを受けていたし、命に別状はないと教えられたけれど、僕たちは皆ひどく心配して待っていたのだ。それをやっと戻ってきたと聞いて、保健室まで駆けつけた僕らを、出迎えた時の三郎ときたら。
 彼は三日間に及ぶ戦闘も逃走劇もなかったように、飄々と笑ってみせた。
 やあ雷蔵、会いたかった。
 血の染みた制服を羽織って、青痣の浮く頬と、切れた唇をぎこちなく歪めながら。

 傷は顔と、肩口だった。
 こんなの、たいしたことないんだよ。
 さっさと部屋に戻りたがる三郎を頑として許さず、新野先生は保健室に敷かれた布団を指さした。
 さあ鉢屋君、ここが君の寝床です。左近君が心をこめて敷いてくれました。勿論大人しく寝ますよね、まだ熱がさがってないでしょう?

「毒を受けたんだって?」
「……えーっと」
「これくらい問題ない、騒ぐほうがおかしいって啖呵切ってたらしいけど。天才の鉢屋三郎くんは」
「……えーとあの、そんなこともあったかもしれませんが」
 三郎は布団の中で小さくなっている。三郎は術も体捌きも上手いけれど、純粋な体力という意味ではそれほど抜きんでているわけじゃない。多分見栄を張ったのだろう。僕らのうちのひとりでも一緒にいれば、そんな見栄は看破してやったのに。
 大事には至らないと判断した上とはいえ、結果として処置が遅れ、彼のけがの悪化に拍車がかかったわけだ。まったく呆れた話である。新野先生にもお説教されていたけれど、当然だと思う。
「……とても心配したんだよ」
 僕はぽつりと呟いた。
「おまえがけがをしたって聞いて」
「うん」
「おまえが帰ってくるまで。熱を出して眠ってる間。今、目を覚ますまでも、ずっと」
 担当の保健委員も、新野先生も席を外していて、保健室はどこかがらんどうに見える。その真ん中に転がされた彼と、寄り添っている僕のふたりきり。
 僕は彼を見つめすぎたのかもしれない。彼は気まずそうに視線をそらし、しばらくもごもごと口籠ったあと、あのな、と切りだした。
「意識のない間な、」
「うん?」
「ゆめを見ていたんだ」
「へえ。どんな?」
「私の額に雷蔵がふれる夢。私の鼻に雷蔵がふれる夢。わたしの喉や、胸や、舌や、肩甲骨の裏側にきみがふれる夢だった」
 彼は歌うように、滑らかに続けた。
「それから、私に接吻をしてくれる」
「ええ?」
「まあ、さいごのは私の願望だけれども」
 三郎は口角を引き上げる。腫れた頬にそれは不格好で、痛そうに引き攣っていたくせに、どこか無邪気だった。楽しい悪戯でも思いついたみたいに。
「まあつまり、なかなかいい夢だったのさ。ね、雷蔵、もう一度ふれてくれないか。ゆめの中みたいに! 熱烈に」
「何言ってるのさ、ばか……」
 彼は誘うように、片腕を僕に伸ばした。僕は呆れながら、その手を軽く払ってやるつもりだった。それだのに、なぜか僕の手は、それをぎゅっと握り締めていた。きょとんとしたような三郎の顔が、段々ぼやけていく。
 あれ、僕一体どうしたのかしら。
 戸惑っている間に、彼の掌の上に、ぱたぱたと水滴が落ちた。
 ……えっ?
作品名:hush-a-bye,baby 作家名:リカ