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文鳥(前編)

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堀田さんから、鳥をもらった。
俺は半ば途方に暮れながら、籠の中で首を傾げる文鳥を見下ろした。




先月までのじりじりと肌を焼くような迫り来る暑さが随分遠のき、夕暮れともなれば幾分涼しい風がうすく汗を帯びた首筋を冷やしていき、藍色のような群青のようなそれでいて朱の入り混じった空が背後に遠のいていくのを感じながら、俺は堀田さんの邸宅へ向かっていた。


堀田さんの家は横須賀の海軍の港からそう遠くない場所にあった。
路面電車を降りていくらか坂と階段を上った先にある長屋の連なる地区にあった。
ひっそりとした古い長屋が立ち並び、しかし空襲の名残を残すように焼け落ちた鉄骨だの瓦礫が小山になって除けられてあったり、さきほどまで子供がいたのだろう、砂砂利の道路には石灰で描かれた円がいくつも連なって残されていたり、どこからか醤油を煮立てるような匂いの届く所帯染みた長屋だった。さしたる戦歴がないとはいえ、しかしこうして終戦まで無事に前線への補給活動を行い、少佐にまでなったのだから、あの人もここらの人間よりもいくらか金があるだろうから、わざわざこんな野暮ったい場所に住まなくても良いだろうに、と堀田さんの家へと出向く度に思う。

近頃では米国が公娼廃止指令を出し、堀田さんの長屋を含めたここら一体まで赤線地帯と名づけているらしい。
暗黙の了解の下で女が体を売っている場だ。先ほど通ってきた人通りの多い場で幾人かの女に腕を引かれたのを思い出し、これから俺が男と何をするつもりなのかという事を女に突き付けてやったらどんな顔をするだろうか、と多少想像してみるのはいくらか愉快なものだった。それにしても、やはりこんな長屋などはあまり行儀の良い場所とは言えないし、軍でそれなりの地位にあった者などはそういう地区から遠くに家を構えている。俺も喧騒を嫌っていくらか静かな場所に家を構えたのだが、それでも堀田さんはこの下町染みた場所を気に入っているらしい。

それに耳の養生のために予備役となっていたにも関わらず、食うためだと近くの造船所へ働きに出ているというのだから、この終戦直後の混沌とした世の中にあって誰よりも安定した生活を送っている人なのかもしれない。



一方の俺といえば、軍が解体されて以降米軍からはあの島風の艦長として疎まれはしたが上層部の人間のように裁判に掛けられる事もなく、しかし除隊させられ軍の後ろ盾も失っていた。昔のツテが今度新しく組織を整えるという国防海軍だとかいう軍隊だか警察だか分からぬものに新しく入ってくるであろう後任の指導を、と俺を呼んでいるが、俺はまだ返事をしかねていた。再三電報が送られてきては返事を急かされたが俺はその返事をのらりくらりと先送りしながら、水交社から支払われる退役軍人手当てだの給金をカフェーや料亭、サロンでのカード、そこで新しく出来た知人らとの遊びに使いながら一日一日をさした喜びもないまま淡々と生きながらえていた。

この調子で羽振りよく豪遊していればいつか野垂れ死ぬだろうとは思ったが、社会的責任などすでに一切持っていないのだからそれはそれで構わないという気もした。毎日をどっぷりと酒の中を泳ぎ、馬鹿のように騒ぎ立てたりして愉快に過ごし、今日も昼過ぎまで昨夜捕まえたサロンの女給と寝入っていた所だった。まだ首筋に女特有の乳臭いような匂いがアルコールと共にべったりと残っているようでそれだけが不愉快であった。


生きるという事を持て余す連中は、まさに掃いて捨てるほどいた。


女たちはそういう男の持ってくる魚だの米だの酒だのに目を丸くしては大はしゃぎをし、季節の柄もてんで出鱈目の和服をどうにか集めて着込み、何の稽古もしていない芸者とは名ばかりのパンパン芸者相手にそういった男は持て余す力を発散させているようだった。一切のものを失わずにいた者などいない。あと少し勝ってさえいれば今頃・・・という連中ばかりである。本来の事に資金だのなんだので使われる筈だった金をそんな女に見せては、派手に振舞い、騒ぎ立てて見栄を張り、己はほかの労働者や乞食や行き場のない復員兵たちのような惨めな人間でないと逃避するのだ。

なんて愚かな連中だろうか、とその馬鹿騒ぎを眺めながら喉で笑い、ならばこの粗悪な酒を舐めている俺という男は一体何者なのだろうか、とふとその事が頭をよぎるともう駄目だった。途端に興冷めし、それまで舐めていた酒はただの薄められた粗悪な水で、俺の肩口にしなだれかかる女も化粧ひとつ落とせば親を失った哀れな少女であり、この目の前の魚だって鯛やカンパチではなく生臭い池の鯉をどうにか調理したものなのだと気づいてしまう。


するともう行き場のない血潮が出口を求めて皮膚の下で熱く震えるのだった。





長屋にある小さな家を、勝手口ではなく縁側へとまわって顔を出せば堀田さんはそこで鳥かごに指を入れているところだった。中には文鳥だろうか、青みがかった灰色の羽を持つ小さな鳥が一羽頼りなく止まり木に止まっている。遊郭の女が手慰みに愛玩している鳥の籠のような漆が塗られた上等のものではなく、竹細工で組み立てただけ、という簡素な四角い籠に堀田さんの太い指が入っていくのを文鳥は脅えもせずに首を曲げて眺めているらしかった。


「随分酔狂なものを揃えたんですね」


堀田さんが顔を上げて俺を見た。
堀田さんは変わらない。どこにあっても、この人は錨のように何も変わらずそこに留まっている。その安定にどこか安心も覚えれば己を後ろめたく思うような気持ちが入り混じり、戦時であれば覚えなかったこの違和感に浮かべた笑みがひっそりと暗くなる。それを誤魔化すように堀田さんに米が入った手土産の麻袋を差し出してやれば、堀田さんはそれを受け取らずにただ俺の顔を見上げる。その目が手土産などいらない、と言っている。もう何度もそう言われた。だがそれでは俺の男としての矜持が許さない。そして受け取るという事は堀田さんの男としての矜持が許さない。男同士であるというのはいささか厄介だ。これが女ならば内心の気持ちは分からんがそれでも笑みを浮かべて受け取り、それで終いである。だが堀田さんとしてはこの米を受け取れば次に俺を呼び辛くなる。手土産を用意させる事に気が咎める。だが俺としても手ぶらで来るよりはこうして手土産のひとつを持って行く方が気が楽である。そこでの折り合いをつけられないまま、俺は文鳥の籠の隣に腰を下ろし、米の入った麻袋を縁側の隅へと置いた。堀田さんの目が、きちんと持って帰りなさい、と言っていたが俺は確かにこの米をこの家に忘れていくだろう。それで良いのだ。


「それで、この文鳥はどうしたんです?」
「買ってきた。鳥売りの男がこの種は人気がないから、ともすれば処分してしまうと言っていたからな」
「堀田さんらしい」



―――――堀田さんらしい。

そう言うしかなかった。何故ならばそれが全てだったからだ。
作品名:文鳥(前編) 作家名:山田