奏者
そこまで言って杏子はすこし赤くなった頬を緩ませてから、ぎゅうと唇をかんだ。さやかはただ、水のグラスを見ていた。氷がとけて、音がした。
どうしてあたしたち、こんなところにいるんだろう。
暁美ほむらの話を信じたわけでも、信じたいわけでもない。だけど。
確実になにかに脅かされている感覚を、さやかは知っていた。なにかじぶんの中の歯車が、おかしくなっていることに。そして、まわりはじめたものは、とまらないことも、知っていた。
踊らされているみたいだと杏子は思った。なにか、得たいの知れないなにかに。疑うことは疲れてしまった。ただ自分が起こした現実がすべてだと思っていた。だけど。もし違う運命もあったならと、捨てた希望をもってしまう。そしてまたこわくなる。一体、これから、どうなるんだろう。
杏子にとっておそれるものは、死ではなかった。彼女はそれは至るべき道で避けるものではないと思っていた。いつか来るべきときに、迎えるもので、見極めるものだと思っていた。それがどんなかたちであれ。
こわいのは、そのあとだ。暁美ほむらは魔法少女が魔女になるのだと言った。現に目の前にいるさやかがそうなる運命だと言い放ったのだ。信じたくない。だけど。
本当のことだって、まだあたしは、なにもしらない。
それがいちばん、こわいことだ。
さやかは立ち上がる。杏子は彼女を見上げる。帰るのか、と聞いた。
さやかは、ごめんと呟いた。何の謝罪か、杏子はわからなかった。彼女の顔は俯いたままでよく見えない。
そのまま鞄から財布をとりだし、千円札をぬいて机においた。杏子は胸のあたりがひやりとした。ぽたぽたと、千円札を濡らす水分は、たしかにさやかの頬をつたって、落ちているものだ。
「あたしって、
ほんとバカ」
チャーハンは油でぎらぎらと光ったまま、まだ皿にのっていた。スプーンはいつしか床に落ちていた。
杏子はからっぽになった向かいの席をただ見ていた。油の匂い、煙草の煙、テレビの声、倦怠感、性欲、まだ知らなくていいものばかり溢れた空間で、杏子はひとりになる。ああ。
甘いものが食べたい、と思った。
奏者