浜辺の邂逅
海は今日も穏やかだ。
秋の陽射しは波の小山を煌かせ、風は午後の穏やかな時間を告げている。
思い出の場所。海に掛かる、虹の見える場所。始まりの場所。
昔、三人が出会った場所に、カタシロは一人立っていた。
(これが感傷と言うのかも知れないな)
美しい景色を見たかった。しかし、いつからか美しいと感じていた風景に何も感じなくなかった。その理由をカタシロは自身で理解していた。
(美しさを教えてくれた人間がここにはいない)
あの風景は三人で居たからこそ完成していたものだと思う。
彼と、彼女と、自分と。
(全て失くしてしまったが)
彼。彼女。あとは、『美しい』と思う心。
何も残らなかったのは、自らが何も手に入れようとはしなかったからか。
言葉にすれば変わっただろうか。
動けば変わっただろうか。
両の目をしっかりと見開いていれば、今でもこの風景を美しいと思っただろうか。
(今ではもう、どうしようもないことだ)
彼は時を止めた。彼女は島を出た。自分は此処に残った。
それが全てなのだから。
肺に溜まった息を吐く。随分と遠くに来たように思うのは年を重ねたからだろうか。もう帰ろう、そう思って踵を返したとき、こちらに向かってくる人影が目に入った。
(紅い、髪)
やけに眩しく映る赤色に、一つ目を眇めた。その色の持ち主を一人、知っている。
「ツナシ・タクト……」
彼と彼女の子供。
そして。
彼が求めてやまなかった、シルシの後継者。
「あれ? 何処かでお会いしました?」
呟いた声を拾われてしまったらしい。カタシロが気が付いたときには、二人の距離は随分と縮まっていた。自然、向き合う姿になってどうしたものかと思案する。
「……自分の学園の生徒の名前くらい知っているさ。それに、君は色々な意味で目立っているからな」
「へ? 学園の先生、ですか?」
不思議そうに目をぱちくりとさせている様は、彼の父親にも母親にも似ていない。それが少し面白く、僅かに唇の端を上げた。
「南十字学園の理事長代行をやっている」
「りじちょうだいこう……」
タクトは初めて口にする言葉のように、一音一音呟く。そして、意味を理解した瞬間、目の前に居る人間に驚いた。
「偉い人じゃないですかっ! えっと、その、お世話になってます?」
驚きのあまり声が上ずり僅かに身を引きながらも、笑顔を浮かべ律儀に挨拶をする。そんなタクトの様子が可笑しくて、カタシロは小さく肩を揺らす。
「そんなに驚かなくてもいいだろう。所詮は代理、形ばかりのものだ」
「いや、そういう問題じゃないかなと思うんで」
「気楽にしてくれ。例え君が言うように『偉い人』でも公私はある。気晴らしの時間を過ごすのに、仕事の肩書きは邪魔だ」
「そういうものですか?」
それならと、タクトの肩から力が抜ける。途端、引きつっていた笑顔も自然なものになる。
ゆるい陽射しを受ける、穏やかな顔。
(その顔は、似ているな)
彼にも、彼女にも。確かに二人にも、そんな表情をしていた時があったのだ。
(確かに、あったのに)
「よくここに来るんですか?」
「時どきな」
凪いだ海を並んで眺める。随分と珍妙な光景だろうなと、カタシロは内心笑う。見た目にも、互いの立場としても。
「今日は、友人はどうしたんだ?」
「友人って、スガタとワコのことですか?」
「シンドウ家の子息とその婚約者をこの島で知らない者はいない」
「だからさっき色々と目立つって」
それはそうですよね、とタクトは笑う。二人は島が認めるカップルだ。そんな二人と居て目立たないわけがない。
「いつも一緒ってわけじゃないですよ」
「そうか」
「でも、スガタたちといるのは楽しいです」
そう言って笑う顔に偽りの色は見えない。だからこそ、カタシロは尋ねたかった。
「いつか」
もしもの話。けれども、もしかしたら、そう遠くない未来の話。
「いつか、三人で居られなくなったらどうする?」
鮮やかな赤眼が、カタシロを映す。その内心を探るように、言葉の奥底を感じるように。
凪いだ目だと思った。赤色に感情の揺らめきは浮かんでいない。
瞬きがその目を隠す。一瞬の仕草がやけにゆっくりと見えた。
「さぁ。でも」
再び開かれた目はすでにカタシロを見てはいなかった。
空と海の狭間。何もないはずの淡い空間に見えているのは、未来か、今か、もしくは自らの心の内か。
「彼女が笑ってくれてたら、それでいいです」
透明な笑顔だった。
それは、彼の父が美しいものに向けていた、かつての微笑みに似ていた。
(そんな顔が出来る彼に、俺は憧れていた)
「彼女のことが大切なんだな」
「それだけじゃないんです」
ほんの少しバツが悪そうに、眉を八の字に下げた笑み。悪戯がバレた子供のような顔は、実年齢よりも幼く見えた。
「彼女が笑っていれば、アイツも笑うから」
だから、彼女が笑ってくれていたら、それでいい。
(ああ、そうか。彼のことも)
「同じくらい大切なのか」
返されるのは無言の微笑み。やけに眩しく、そして何処か疼くような感覚を覚えるのは、彼の持つ純度に目が眩んだからか。
(ただただ、笑顔が見たかった)
彼の。彼女の。自分も本当はそれだけで良かったのかもしれない。
それに気が付いたのは全てが終わった後だけれど。
(大切だったさ)
今でもその思いは変わらない。二人とも手放したくないと思うほど大切に思っていた。それを口に出さなかったから、色んなものが歪んで、失くしたものもあるが。
(それでも、だから、彼がいま此処にいる)
眩しい赤色が、カタシロの目の前で笑っている。
自分たちと似ている関係を築いている彼が、自分たちとは違う未来を描こうとしている。
(だから、この眼は残ったのかもしれない)
一つ残っている右目を撫ぜる。
左目は見たくないモノから逃げてしまった。それならば、右目は見るべきものを見るために残ったのだろうか。
今見えているものは、紛れもない鮮やかな未来だ。
「友達は大事にしろよ」
自分は、その方法を間違えてしまったけれど。どうか同じ間違いは犯してくれるなと言葉の底に込めて。
「はい」
タクトが頷けば、その赤毛がはらりと動く。
(そういえば、いつか見た夕焼けも)
三人で見たあの夕焼けも、そんな色をしていた。
(ああ、『美しい』とは、確かこんなものを言うんだった)
久しく動いていなかった何処かが動いた気がした。
(もう、動くこともないと思っていたが)
彼が動かし、彼女が止めたものが、二人の息子によって動かされる。
「星は巡る、か」
「え?」
「何でもない。そろそろ俺は戻ることにする」
「そうですか」
「ここは夕焼けが綺麗だ。時間があるなら見ていけば良い」
きっとあの時自分が見たものとは違うだろうが、何故だかその目を通して見れば、きっと美しく見えるのだろうと思った。
タクトは海空とカタシロを見比べて、頷く。
「はい、そうします」
「それじゃあ」
「さようなら。えっと、またいつか!」
秋の陽射しは波の小山を煌かせ、風は午後の穏やかな時間を告げている。
思い出の場所。海に掛かる、虹の見える場所。始まりの場所。
昔、三人が出会った場所に、カタシロは一人立っていた。
(これが感傷と言うのかも知れないな)
美しい景色を見たかった。しかし、いつからか美しいと感じていた風景に何も感じなくなかった。その理由をカタシロは自身で理解していた。
(美しさを教えてくれた人間がここにはいない)
あの風景は三人で居たからこそ完成していたものだと思う。
彼と、彼女と、自分と。
(全て失くしてしまったが)
彼。彼女。あとは、『美しい』と思う心。
何も残らなかったのは、自らが何も手に入れようとはしなかったからか。
言葉にすれば変わっただろうか。
動けば変わっただろうか。
両の目をしっかりと見開いていれば、今でもこの風景を美しいと思っただろうか。
(今ではもう、どうしようもないことだ)
彼は時を止めた。彼女は島を出た。自分は此処に残った。
それが全てなのだから。
肺に溜まった息を吐く。随分と遠くに来たように思うのは年を重ねたからだろうか。もう帰ろう、そう思って踵を返したとき、こちらに向かってくる人影が目に入った。
(紅い、髪)
やけに眩しく映る赤色に、一つ目を眇めた。その色の持ち主を一人、知っている。
「ツナシ・タクト……」
彼と彼女の子供。
そして。
彼が求めてやまなかった、シルシの後継者。
「あれ? 何処かでお会いしました?」
呟いた声を拾われてしまったらしい。カタシロが気が付いたときには、二人の距離は随分と縮まっていた。自然、向き合う姿になってどうしたものかと思案する。
「……自分の学園の生徒の名前くらい知っているさ。それに、君は色々な意味で目立っているからな」
「へ? 学園の先生、ですか?」
不思議そうに目をぱちくりとさせている様は、彼の父親にも母親にも似ていない。それが少し面白く、僅かに唇の端を上げた。
「南十字学園の理事長代行をやっている」
「りじちょうだいこう……」
タクトは初めて口にする言葉のように、一音一音呟く。そして、意味を理解した瞬間、目の前に居る人間に驚いた。
「偉い人じゃないですかっ! えっと、その、お世話になってます?」
驚きのあまり声が上ずり僅かに身を引きながらも、笑顔を浮かべ律儀に挨拶をする。そんなタクトの様子が可笑しくて、カタシロは小さく肩を揺らす。
「そんなに驚かなくてもいいだろう。所詮は代理、形ばかりのものだ」
「いや、そういう問題じゃないかなと思うんで」
「気楽にしてくれ。例え君が言うように『偉い人』でも公私はある。気晴らしの時間を過ごすのに、仕事の肩書きは邪魔だ」
「そういうものですか?」
それならと、タクトの肩から力が抜ける。途端、引きつっていた笑顔も自然なものになる。
ゆるい陽射しを受ける、穏やかな顔。
(その顔は、似ているな)
彼にも、彼女にも。確かに二人にも、そんな表情をしていた時があったのだ。
(確かに、あったのに)
「よくここに来るんですか?」
「時どきな」
凪いだ海を並んで眺める。随分と珍妙な光景だろうなと、カタシロは内心笑う。見た目にも、互いの立場としても。
「今日は、友人はどうしたんだ?」
「友人って、スガタとワコのことですか?」
「シンドウ家の子息とその婚約者をこの島で知らない者はいない」
「だからさっき色々と目立つって」
それはそうですよね、とタクトは笑う。二人は島が認めるカップルだ。そんな二人と居て目立たないわけがない。
「いつも一緒ってわけじゃないですよ」
「そうか」
「でも、スガタたちといるのは楽しいです」
そう言って笑う顔に偽りの色は見えない。だからこそ、カタシロは尋ねたかった。
「いつか」
もしもの話。けれども、もしかしたら、そう遠くない未来の話。
「いつか、三人で居られなくなったらどうする?」
鮮やかな赤眼が、カタシロを映す。その内心を探るように、言葉の奥底を感じるように。
凪いだ目だと思った。赤色に感情の揺らめきは浮かんでいない。
瞬きがその目を隠す。一瞬の仕草がやけにゆっくりと見えた。
「さぁ。でも」
再び開かれた目はすでにカタシロを見てはいなかった。
空と海の狭間。何もないはずの淡い空間に見えているのは、未来か、今か、もしくは自らの心の内か。
「彼女が笑ってくれてたら、それでいいです」
透明な笑顔だった。
それは、彼の父が美しいものに向けていた、かつての微笑みに似ていた。
(そんな顔が出来る彼に、俺は憧れていた)
「彼女のことが大切なんだな」
「それだけじゃないんです」
ほんの少しバツが悪そうに、眉を八の字に下げた笑み。悪戯がバレた子供のような顔は、実年齢よりも幼く見えた。
「彼女が笑っていれば、アイツも笑うから」
だから、彼女が笑ってくれていたら、それでいい。
(ああ、そうか。彼のことも)
「同じくらい大切なのか」
返されるのは無言の微笑み。やけに眩しく、そして何処か疼くような感覚を覚えるのは、彼の持つ純度に目が眩んだからか。
(ただただ、笑顔が見たかった)
彼の。彼女の。自分も本当はそれだけで良かったのかもしれない。
それに気が付いたのは全てが終わった後だけれど。
(大切だったさ)
今でもその思いは変わらない。二人とも手放したくないと思うほど大切に思っていた。それを口に出さなかったから、色んなものが歪んで、失くしたものもあるが。
(それでも、だから、彼がいま此処にいる)
眩しい赤色が、カタシロの目の前で笑っている。
自分たちと似ている関係を築いている彼が、自分たちとは違う未来を描こうとしている。
(だから、この眼は残ったのかもしれない)
一つ残っている右目を撫ぜる。
左目は見たくないモノから逃げてしまった。それならば、右目は見るべきものを見るために残ったのだろうか。
今見えているものは、紛れもない鮮やかな未来だ。
「友達は大事にしろよ」
自分は、その方法を間違えてしまったけれど。どうか同じ間違いは犯してくれるなと言葉の底に込めて。
「はい」
タクトが頷けば、その赤毛がはらりと動く。
(そういえば、いつか見た夕焼けも)
三人で見たあの夕焼けも、そんな色をしていた。
(ああ、『美しい』とは、確かこんなものを言うんだった)
久しく動いていなかった何処かが動いた気がした。
(もう、動くこともないと思っていたが)
彼が動かし、彼女が止めたものが、二人の息子によって動かされる。
「星は巡る、か」
「え?」
「何でもない。そろそろ俺は戻ることにする」
「そうですか」
「ここは夕焼けが綺麗だ。時間があるなら見ていけば良い」
きっとあの時自分が見たものとは違うだろうが、何故だかその目を通して見れば、きっと美しく見えるのだろうと思った。
タクトは海空とカタシロを見比べて、頷く。
「はい、そうします」
「それじゃあ」
「さようなら。えっと、またいつか!」