結び目
普段なら恐らく聞こえぬ振りをしただろうが、そのとき七代は気紛れに返事をした。なんだ、おまえのめにはなにもみえないのか、と。そう言われた彼はいつもの明朗なおもてを恐怖に引き攣らせて、そのまま七代の許から逃げるように駆け去って行ったのだが。
なんと、彼は翌日、七代に会いに来たのである。
あの時、七代はひどく驚いた。此方としては脅かしてやるつもりでああ言い、事実彼は怯えた顔をしていたのである。彼のああいった表情を見たことがなかったから、恐らく大層怖い思いをしたのだろうと思うのに、彼はわざわざ七代の所在を探し求め、再び七代の眼前に現れたのだ。
しかも、組も違っていたし、今まで話したこともない七代に対し、彼は何と言ったか。
突然七代の許を訪れた彼は、一体何を思ったのか、一緒に野球をしようと、そう誘ったのである。あんなに怯えていたのに。あの時の驚愕と衝撃の大きさは今でも七代の胸に強く焼き付いている。
彼が何故七代を誘ったのか、その理由については未だによく判らない。ひとりで居る七代のことがかわいそうに見えたのか。それとも、怯えさせられたという事実を上書きする為にわざと親しくなろうとしたのか。けれど何にせよ、これまで七代に対し、そうした誘いの声を掛けたのは彼が初めてだったのだ。しかも、七代の身に潜む不可思議な暗闇を垣間見たのだというのに、それでも尚。
驚愕が感銘になり、呆れを伴って、そうして興味が生まれた。
彼は一体何処まで自身の言葉の通りに出来るのだろうかと、七代は思ったのである。
いつまでその言葉を裏切らずにいられるのだろうかと。一点の熱に容易く解れていくほど、七代自身が作り出した氷の殻は決して薄くない。だから、どうせそう口にしたところで彼とて同じこと、異端である七代からすぐに離れていくのだろうと、知らぬがゆえに彼は理解出来ていないだけなのだと、自嘲含み冷笑する意地悪な気持ちも確かに少なくはなかった。
しかしそれでも、七代はその時、彼の提案に乗ってみようと思ったのである。どうせ駄目なのだと諦めずに。近い未来、すぐに手放されるかも知れないと思いながらも、己の方へ伸ばされた指に七代は触れたのだ。
七代の中の半分は、彼を、信じたのだ。もしかしたら、と。
しかし。
彼と交わした約束は、思わぬかたちで失われることになった。
七代の引き取り先が突然、決まったのである。
引き取りたいという話は別段珍しいものではなく、そうした声はそれまでにも何度かあったのだが、ただ、引き取られても毎回長続きしないのだ。七代自身は己の眼に見える異形について口に出せばどういう反応をされるのかようく知り抜いていたので、それを自分から言い出すことはほぼないのだが、それでも何かがおかしいと何となく異質な空気を皮膚で感じるのだろう。結局は気味悪がられて、手放されてしまうのである。
己の居場所が何処であろうと七代にとっては同じことだった。先方がどんな人間であろうとどんな家に住んでいようとも興味はない。けれど、今回ばかりは事情が違った。突然の話に乗って移転してしまえば、折角交わした彼との約束が果たせなくなってしまう。
だから七代は、何とか一日だけでも出立の日取りを延ばしてもらえないかと必死に頼んだ。七代が何かを強く懇願したことなど今までに一度もなかったから、おとなたちは皆一様に顔を見合わせていたのだが、すでに決定されている事項が覆ることもなく。
七代千馗が初めて誰かと交わした小さな約束は、否応無しに裂かれてしまったのである。
結局。やはり予想した通り、そうまでして引き取られた先でもうまくはいかず、それからも七代は様々な場所にゆらゆらと流されながらしばらくの間、時折彼のことを考えていたが、だからといってどうすることも出来はしなかった。
七代の小さな掌に残ったのは一瞬握り掛けた指の温かさと、どうすることも出来ぬ無力な己に対しての虚しさだけだったのである。
「……………………名前くらい、訊いとけばよかったのかなあ」
じんわりと昔の痛みを思い出してしまった七代は、未だ残っているらしい胸郭の傷に少し苦笑しながら、ひとりそう呟いた。
当時比較的良くしてくれた担任教諭がかずきくん、と呼んでいたのだが、どうやらそれを中途半端に拾ったらしく、彼は七代をかず、と呼んだのである。
そんな風に呼ばれたことがなかったから妙に新鮮で、その時は何となく訂正出来ずにいたのだが。ちゃんと名乗っておけば良かったのかも知れない、と今は思う。互いの名を知ったからといってあの時の状況は恐らく変わらなかっただろうが、折角手を差し伸べてくれたのだ、その相手の名さえ知らずに居るというのはやはり少し、残念な気がした。
そうして、七代の視線が再び壇燈治の寝顔に戻っていく。
そもそも、記憶の再生はこの男の寝言に端を発しているのだ。
「…………」
壇燈治。七代千馗の親友にして相棒。
それはこの男が口にしていることで、七代から言い出したことではなかったが、それでも人前でそう言われても無下に否定しようとは思わない程度には、七代とてその肩書を認めているのだった。あの頃の七代であれば、自分にそういった結びつきが作れるとは夢にも思っていなかったのだろうけれど。
「全く、お前がかず、とか言うから、色々思い出しちゃっただろうが」
七代にそう言い掛けられても壇はぴくりとも動かない。
全くたかが宿題くらいで何故そんなにも疲れるのだ、と、七代は少し可笑しく思いながらふと、蘇った記憶の上で思考を滑らせた。
「ん、……………………そういや……、あの子も、すごい野球馬鹿だったな……」
毎日毎日廊下を駆けていく彼は、いつも野球の話しかしていなかった。
そして、いま七代の腿を枕にして眠りこけているこの男も彼と同様、挫折してしまったとはいえ未だ野球を愛している。彼が今でも何処かで元気に暮らしているとすれば、七代と同い年の筈なのだ。
まさか。
奇妙で些細な共通点に、七代は瞬いた。
「、……いや、まさかな。そんな馬鹿な話はないわ、さすがに」
或る仮定が脳裏をよぎったものの、七代は笑って取り合わず。
自身の中に浮かんだそれをさっさと打ち消してしまった。そんな幸福な偶然など、早々転がっているわけはないのだ。ただ自分が何故か野球を愛する人種と縁が深い、というだけのこと。
けれど、と思う。
もしあのまま何も起こらずに、彼との約束が果たされたのだとしたら。そうしたら、どうなっていたのだろうかと。
やはり、彼も同じだっただろうか。長くは続かなかっただろうか。彼ならばもしやと伸ばした手は、離れてしまっていただろうか。
或いは。親友と呼べるような、そんな関係に、なれたのだろうか。
丁度、いまの壇燈治と七代千馗のように。
全く、自分がまさかこんなにも益体のないことを考えるようになるとは、と、己の思索に七代は笑い。
もう一度壇の顔を見下ろしたあと、その笑みに仄かなやわらかさを混ぜた。
「…………ま、そうだな、…………仕方ないから、あと十五分延ばしてやるか」
額を叩いてやるつもりであった手をとりあえず引っ込めて、のんびりと読書を再開する。