結び目
七代千馗は溜息をついた。
例によって授業のさなかに居眠りをしていた所為で余分な宿題を課せられた親友が、是非ともそれを手伝って欲しいと言うので。仕方無く、壇燈治の家を訪れていたのだが。
別に夜を徹して臨んだというわけでもないというのに、勉強という分野の為に脳を働かせると大層疲労してしまうという厄介な体質であるらしく、宿題を終わらせるや否や壇はぐったりと眠りについてしまった。そのうえ何故か、傍に居た七代千馗の腿を枕にして。
七代は親友の頭を足に乗せたまま、ふと腕の時計を確かめた。壇が倒れ込むようにして眠りに落ちてからすでに四十分あまりが経過している。
起きろ起きろとうるさく言うことの方が面倒だったので七代は早々にそれを諦め、鞄に入っていた単行本を読みながらひとり時間を潰していたのだが。こういう状態も長らく続けばさすがに足が痺れてくる。
七代は伸ばした足の指先を曲げたり伸ばしたりしながら、寝息をたてて眠っている親友にして相棒のやや間抜けな顔を見下ろした。
壇は、本当によく眠っている。
七代にしてみればちょっとした頭の体操、という程度の量だと思うのだが、あれをこなすのにそんなにも疲れてしまうものだろうか。活字を見るだけで眠くなるのだと言うし、そもそもその質から改善していくべきではないだろうか。
今度、この男でも興味を持って読み進められるような本を図書室ででも見繕ってみようか。それでも読む可能性は限りなく低そうだが。
ともあれ、足の方も限界が近付いているのである。気持ち良く眠っているようだから少し可哀想な気もするのだが、そろそろ眼を醒ましてもらわねば。
そう考えながら、七代が起こすのはこの頁を全て読み終えてからにしようか、と迷っていると。
眠っていた筈の壇が突然、眼を開いた。
「、…………かず、」
ひどく眠気に掠れた声音。
「………………、え?」
発せられた言葉に思わず七代が問い返すと、腿の上で壇はごしごしと瞼を擦りながら子供のように身動ぎをした。
「あー…………、なんか、すげェ昔の夢、見てた気がする……」
「…………はあ? ゆめ?」
「あァ……、よく覚えてねェ、けど、なんか、うーん……、さびしい感じの、」
未だ多分に眠気を含んだ声音で壇はそう呟き。何故か、揺らめいていた七代の手を掴んで、握り込んだ。そして抱き枕よろしく七代の腕を掴んだまま、再び眠りに落ちてしまう。
「、おい」
突然左手を取られた七代には壇の行動の意味が全く判らず、一瞬、呆気にとられてしまった。
何故、いきなり手を握られねばならないのか。
七代はすぐ我に返って奪還を試みたのだが、眠っているくせに壇のちからは決して弱くなく、指を一本ずつ引き剥がそうとしてもすぐにうるさそうにそれを振り払われてしまう。
「て、いうか、おい壇、お前そろそろ起きろよ、足が痺れてんだって! そこに枕もベッドもあるんだから眠いんならそっちで寝ればいいだろうが……おい、聞けよ、寝るなって、」
「……ちょっとだけ……」
「何がちょっとだけなんだよ、おい、こら、壇きゅん、手!」
七代は尚も言い募ったのだが、結局、壇の瞼を再び開かせることは出来なかった。
そして、そのうえ腕も取られたまま。もうじき起こそうと思っていたのに、起こすどころか状況は先刻よりも悪くなっているではないか。
全く何事もなかったようにまたすうすうと寝息をたて始めた親友の顔を恨めしく見詰めながら、七代はその顔の上に大きな溜息を吐き落としてやった。実際、そんなことでは腹いせにもなりはしないのだが。
明日は絶対にカレーを奢らせよう、と七代はそうこころに決めた。
家庭教師代と膝枕代、それに腕のレンタル料である。それら総じての値段であれば、明日だけでなく三日間くらいは奢らせるべきかも知れない。勿論、奢らせるのはかの店の特別メニューだ。
親友から受けた(否、現在進行形ではあるが)無体に対する報復方法がめでたく決まったので、七代は思考に一旦の区切りをつけ。そして、呑気に眠っている壇の顔を、じっと観察するように眺めた。
「…………」
かず、と。
先刻、この男が寝惚けた声でそう口にしたように聞こえたのは七代の気の所為だったのだろうか。
随分と昔のことだが、かつて七代千馗を、かず、と呼んだものがひとりだけ居たのだ。
壇の寝言めいた言葉によって、それまで深く深く埋もれていたその古い記憶がおもてへ引き摺りだされ、七代は不意にそのことを思い出した。
本当に随分と昔の、子供だった頃のこと。
その頃の七代千馗は己の眼に宿るちからについて何の知識も持たず。
それゆえに翻弄され、度々虹彩に映る異形のものたちにただただ戸惑うしかなかった。そうして、おぼろげながらも己が異端であると認識した結果、極端にひとから離れて硬い殻の内へ籠るようになってしまったのだ。
生気に欠けていて何処か言い知れぬ薄気味悪さを纏っている、それが、七代千馗という名の子供。七代千馗に投げ掛けられる感想は大凡がそういったものだった。
七代は手を伸ばさなかった。伸ばしても何も得られぬことをようく知っていたから。振り払われて痛みを負うのなら、初めから伸ばさずにいる方が余程いい。
そう考えていた七代千馗は施設でも学校でもほとんどひとに近付くことはなかった。頼ろうとはしなかった。ほとんどのことは極力ひとりきりで出来得るように努力したし、よく学んだし、たくさんの本を読んだ。
そんな己の生き方に不満を感じていなかったわけではなかっただろう。そうやって生きていかねばならぬ己の身を呪うことも少なからずあっただろう。けれど、七代千馗という子供はそういったものに、一切眼を向けなかった。寂しさを、不満を、恐ろしさを、全て自分から切り捨てようとしていたのである。そうした感情は決して己のものではないのだと、認めなかったのである。
一度正面から見詰めてしまえば、眼が合ってしまえば、たちまち囚われて引き込まれてしまいそうな気がしたから。
けれど、常に崖の淵に立っているような、そんな七代千馗に近付いてきた子供が、ひとり、居たのだ。
彼は、大層無邪気で屈託がなく、明朗で、日向の似合う子供だった。
授業以外の時間をほとんど本を読んで過ごしていた七代とは違い、彼はいつも仲間たちと走り回っていた。あれが本来の、子供というものなのだろう。窓枠に四角く切り取られたその光景を遠くから眺め、七代はひんやりとそう考えていた。あれがほんとう。自分は、異質なのだ、と。彼を見るとき七代はいつも、その事実にぎゅっと胸を縛られる思いがした。
前後のことはあまりよく覚えていないのだが、七代がいつものようにぼんやりと己にしか見えぬ異形のものを眺めていた時である。その彼から、一体何を見ているのかと訊ねられたことがあった。七代のことを少しでも知っている生徒であれば自分から声を掛けようなどとは思わない筈なので、彼は七代千馗という子供のことを全く何ひとつ知らなかったのだろう。
羨みの気持ちからなのか、それとも反発だったのか。