ままならぬ恋
ままならないなら、俺、お前と終わってみるよ。
ロマーノがスペインの家を出て行く日だった。それなりに大きな鞄を手にして旅支度に身を包んだロマーノはそう言った。ロマーノは、二人が初めて出会った時より随分背が高くなっていた。
スペインとロマーノは恋人同士だった。スペインの家にロマーノがやってきてしばらく経った頃からそうだった。
最初、どうせ祖父の威光の残りかすが目当てのくせに、とロマーノは思っていたがその推測は少し違っていた。スペインは、まるで引き取った幼子を守る人の親のようにロマーノを守った。初めて見る他人のそんな姿にロマーノは困惑し、そして徐々に愛されることに慣れていった。スペインに懐いた。他に言わせればロマーノはまさに「懐柔」されていったのである。スペインにその気があったのかどうか、今でもロマーノには分からない。
そんなスペインはロマーノを甘やかし続けたものだから、ロマーノはスペイン以上に優しいものをあまり知らなかった。スペイン以外の優しいものと接しなかったかと言えばそんなことはないのだが、ベルギーも、オランダも、オーストリアも、フランスも、ヴェネチアーノも、その身を挺してロマーノを守ったことがあったかというとそうではなかったのだ。ロマーノにとって、ローマの庇護は彼とヴェネチアーノの出奔で打ち消されていた。ロマーノを守ったスペインはロマーノの中で「やさしい」ものとされ、そのやさしさはロマーノにとって特別なものだった。
少しして恋だの愛だのについてロマーノが考えるようになった時、ロマーノの頭には異性、例えばベルギーだったりハンガリーだったりよくしてくれるメイドだったりが浮かばなかった。まるでパズルのピースのように、当然のようにスペインがそこに当てはまってしまった。最初こそロマーノは戸惑ったものの、その内に自分の感情に納得した。女の人は柔らかくて確かに愛しかったけれど、それと恋とを結び付けることがロマーノにはどうしてもできなかった。
スペインは自分によくしてくれた。スペインが自分のことを嫌いならよくはしないだろう。よくしてくれる人は嫌いじゃないし、自分のことを嫌いじゃない人は嫌いじゃない。だから自分はスペインのことが好きだ。そういう論法だった。
多分雛鳥の刷り込みのような、いや刷り込みそのものだったのだろうとロマーノは思う。ただそれが当時の自分にとっては、それ以外が無い、唯一で、焦がれる恋であったのだ。
そうしてロマーノはスペインにその想いを告げた。スペインはとても喜んでロマーノの想いを受け入れた。いつからかは知らないが、スペインもロマーノのことを恋の対象として好きだったのだ。
そしてしばらく経った頃、ロマーノはスペインと寝台を共にする。誰かとの経験が無かったロマーノにとってそれは全てが全く未知の体験であり感覚であり、初めロマーノは恥ずかしさと混乱から泣きじゃくった。そんなロマーノにスペインは、触れ合う気持ちよさを一つ一つ丁寧に教えていった。次第にロマーノは慣れていき、羞恥心を完全に消し去ることはできなかったが、スペインと快楽を共有できることに喜びを見出すようになっていった。
それはあたかも、普通の恋人同士のような日々だった。
時を重ね、ロマーノはさらに成長した。その手足はまろやかな曲線ではなく所々でこぼことした線を描くようになり、ボーイソプラノを奏でた声は今や立派な成人男性のそれになっていた。いろいろな出来事があったが、スペインとロマーノは変わらず恋人同士のままだった。だがロマーノは成長とともに、少しずつスペインのやさしさ以外の世界と知識を知っていった。
そしてついに、ある日一つの疑念を覚える。
俺は本当にスペインのことが好きなのか。
スペインのことが好きだと確立づけたあの方程式は本当に正しかったのか。一度湧いた考えは消えることはなく、ロマーノの中でくすぶり続けた。そしてロマーノの疑念の成長に比例するかのように、ある一つの方向に向かって民意は高まった。ロマーノが民意に比例したのかもしれないが、真相は分からない。
そしてスペインとロマーノは今日を迎えた。
ロマーノがスペインの家を出て行く日だった。それなりに大きな鞄を手にして旅支度に身を包んだロマーノはこう言った。
ままならないなら、俺、お前と終わってみるよ。
その言葉を聞いたスペインは目を見開いた。ロマーノはその目を見たままもう一度言った。
ままならないなら、俺、お前と終わってみたい。
ロマーノは淡々と、しかし切々と続ける。ロマーノがいかにその問題について長く考えてきたか、それを知らしめるかのような声だった。
今俺とお前が一緒にいることがままならなくなるなら、俺自身がお前とも別れてみたい。
いろんなことを知って、俺、本当にお前のことが好きかどうか分からなくなっちまった。お前には、……感謝してる。それは間違いねえ。けどな、俺、スペイン以外を知らねえんだよ。お前以上にいい恋人がいるかもしれないなんて思っちゃいねえ。少し、お前のいない所で考えたいんだ。お前のいない所で、スペインって何なのか、恋って何なのか、俺にとってのお前って何なのか。……ちゃんと、考えてみたい。
ロマーノの長い独白を聞き終えたスペインは、少し黙った後にこう言った。
「……俺も、言うべきだったんかな」
喋り終えた後にうつむいていたロマーノは顔を上げてスペインを見た。常と違い、その表情から感情を伺い知ることはできなかった。
「ロマーノは、ちょっと寂しかったから、俺が守ったのを勘違いしとるんよ、それは好きって気持ちかもしれんけど恋とはちゃうよ、って」
ロマーノは黙ったままだった。スペインが言ったことはまさに、自分の考えていた通りのことだったからだ。
でもな、とスペインは続ける。
「俺もそこまで考えれんかったなあ。今やから言えたことかもしれへんし。……好きやった子が俺のこと好き言うてくれて、嬉しかった。そんで、その子は、大きゅうなってからはいつもじゃなくなったけど、俺のベッドで一緒に寝よった。その上、裸やった。俺も、その子も」
若かったなあ俺も、とスペインは頬をかいてゆるゆると苦笑した。その笑顔とおそらくはわざとふざけてみせた言い回しに、無性にロマーノは泣きたくなった。
「……わがままでごめん」
「……まさかロマーノからそんな言葉を聞く日が来るとは思わんかったわあ」
スペインはおどけてそう言った。ロマーノの気持ちを少しでも軽くしようとしているのと同時に、スペインに対してほとんど謝ったことのないロマーノを揶揄しているのだろう。
それでも、スペインはロマーノを許すのだ。暗黙の内にそう言われている気がした。
スペインは優しく笑った。
「ごめんなさいって言えたロマに親分が駄目って言うたことあった?」
ほらやっぱり。ロマーノは黙って首を横に振った。ならよし、と笑ったスペインは、やっぱり優しいのだと思う。
離れなくっても分かっていた。離れようとして分かった。
ロマーノがスペインの家を出て行く日だった。それなりに大きな鞄を手にして旅支度に身を包んだロマーノはそう言った。ロマーノは、二人が初めて出会った時より随分背が高くなっていた。
スペインとロマーノは恋人同士だった。スペインの家にロマーノがやってきてしばらく経った頃からそうだった。
最初、どうせ祖父の威光の残りかすが目当てのくせに、とロマーノは思っていたがその推測は少し違っていた。スペインは、まるで引き取った幼子を守る人の親のようにロマーノを守った。初めて見る他人のそんな姿にロマーノは困惑し、そして徐々に愛されることに慣れていった。スペインに懐いた。他に言わせればロマーノはまさに「懐柔」されていったのである。スペインにその気があったのかどうか、今でもロマーノには分からない。
そんなスペインはロマーノを甘やかし続けたものだから、ロマーノはスペイン以上に優しいものをあまり知らなかった。スペイン以外の優しいものと接しなかったかと言えばそんなことはないのだが、ベルギーも、オランダも、オーストリアも、フランスも、ヴェネチアーノも、その身を挺してロマーノを守ったことがあったかというとそうではなかったのだ。ロマーノにとって、ローマの庇護は彼とヴェネチアーノの出奔で打ち消されていた。ロマーノを守ったスペインはロマーノの中で「やさしい」ものとされ、そのやさしさはロマーノにとって特別なものだった。
少しして恋だの愛だのについてロマーノが考えるようになった時、ロマーノの頭には異性、例えばベルギーだったりハンガリーだったりよくしてくれるメイドだったりが浮かばなかった。まるでパズルのピースのように、当然のようにスペインがそこに当てはまってしまった。最初こそロマーノは戸惑ったものの、その内に自分の感情に納得した。女の人は柔らかくて確かに愛しかったけれど、それと恋とを結び付けることがロマーノにはどうしてもできなかった。
スペインは自分によくしてくれた。スペインが自分のことを嫌いならよくはしないだろう。よくしてくれる人は嫌いじゃないし、自分のことを嫌いじゃない人は嫌いじゃない。だから自分はスペインのことが好きだ。そういう論法だった。
多分雛鳥の刷り込みのような、いや刷り込みそのものだったのだろうとロマーノは思う。ただそれが当時の自分にとっては、それ以外が無い、唯一で、焦がれる恋であったのだ。
そうしてロマーノはスペインにその想いを告げた。スペインはとても喜んでロマーノの想いを受け入れた。いつからかは知らないが、スペインもロマーノのことを恋の対象として好きだったのだ。
そしてしばらく経った頃、ロマーノはスペインと寝台を共にする。誰かとの経験が無かったロマーノにとってそれは全てが全く未知の体験であり感覚であり、初めロマーノは恥ずかしさと混乱から泣きじゃくった。そんなロマーノにスペインは、触れ合う気持ちよさを一つ一つ丁寧に教えていった。次第にロマーノは慣れていき、羞恥心を完全に消し去ることはできなかったが、スペインと快楽を共有できることに喜びを見出すようになっていった。
それはあたかも、普通の恋人同士のような日々だった。
時を重ね、ロマーノはさらに成長した。その手足はまろやかな曲線ではなく所々でこぼことした線を描くようになり、ボーイソプラノを奏でた声は今や立派な成人男性のそれになっていた。いろいろな出来事があったが、スペインとロマーノは変わらず恋人同士のままだった。だがロマーノは成長とともに、少しずつスペインのやさしさ以外の世界と知識を知っていった。
そしてついに、ある日一つの疑念を覚える。
俺は本当にスペインのことが好きなのか。
スペインのことが好きだと確立づけたあの方程式は本当に正しかったのか。一度湧いた考えは消えることはなく、ロマーノの中でくすぶり続けた。そしてロマーノの疑念の成長に比例するかのように、ある一つの方向に向かって民意は高まった。ロマーノが民意に比例したのかもしれないが、真相は分からない。
そしてスペインとロマーノは今日を迎えた。
ロマーノがスペインの家を出て行く日だった。それなりに大きな鞄を手にして旅支度に身を包んだロマーノはこう言った。
ままならないなら、俺、お前と終わってみるよ。
その言葉を聞いたスペインは目を見開いた。ロマーノはその目を見たままもう一度言った。
ままならないなら、俺、お前と終わってみたい。
ロマーノは淡々と、しかし切々と続ける。ロマーノがいかにその問題について長く考えてきたか、それを知らしめるかのような声だった。
今俺とお前が一緒にいることがままならなくなるなら、俺自身がお前とも別れてみたい。
いろんなことを知って、俺、本当にお前のことが好きかどうか分からなくなっちまった。お前には、……感謝してる。それは間違いねえ。けどな、俺、スペイン以外を知らねえんだよ。お前以上にいい恋人がいるかもしれないなんて思っちゃいねえ。少し、お前のいない所で考えたいんだ。お前のいない所で、スペインって何なのか、恋って何なのか、俺にとってのお前って何なのか。……ちゃんと、考えてみたい。
ロマーノの長い独白を聞き終えたスペインは、少し黙った後にこう言った。
「……俺も、言うべきだったんかな」
喋り終えた後にうつむいていたロマーノは顔を上げてスペインを見た。常と違い、その表情から感情を伺い知ることはできなかった。
「ロマーノは、ちょっと寂しかったから、俺が守ったのを勘違いしとるんよ、それは好きって気持ちかもしれんけど恋とはちゃうよ、って」
ロマーノは黙ったままだった。スペインが言ったことはまさに、自分の考えていた通りのことだったからだ。
でもな、とスペインは続ける。
「俺もそこまで考えれんかったなあ。今やから言えたことかもしれへんし。……好きやった子が俺のこと好き言うてくれて、嬉しかった。そんで、その子は、大きゅうなってからはいつもじゃなくなったけど、俺のベッドで一緒に寝よった。その上、裸やった。俺も、その子も」
若かったなあ俺も、とスペインは頬をかいてゆるゆると苦笑した。その笑顔とおそらくはわざとふざけてみせた言い回しに、無性にロマーノは泣きたくなった。
「……わがままでごめん」
「……まさかロマーノからそんな言葉を聞く日が来るとは思わんかったわあ」
スペインはおどけてそう言った。ロマーノの気持ちを少しでも軽くしようとしているのと同時に、スペインに対してほとんど謝ったことのないロマーノを揶揄しているのだろう。
それでも、スペインはロマーノを許すのだ。暗黙の内にそう言われている気がした。
スペインは優しく笑った。
「ごめんなさいって言えたロマに親分が駄目って言うたことあった?」
ほらやっぱり。ロマーノは黙って首を横に振った。ならよし、と笑ったスペインは、やっぱり優しいのだと思う。
離れなくっても分かっていた。離れようとして分かった。