ままならぬ恋
「スペイン」
改まって名前を呼んだロマーノに、スペインは、ん? と首をかしげた。
「今まで、ありがとう」
ありがとう。助けてくれて。
ありがとう。守ってくれて。
ありがとう。優しくしてくれて。
ありがとう。愛してくれて。
ありがとう。愛しい人。
多すぎて、何に対してのありがとうかなんて言い尽くせる気がしなかった。だからロマーノはそれだけ言った。喉がふさぐような思いだった。もしくはロマーノの内に溢れる無数の思いがロマーノの喉をふさいだのかもしれなかった。
「……どういたしまして」
ロマーノの揺れる視界の中では、そう言ったスペインの声も揺れているように聞こえた。くぐもって聞こえたその声について問うつもりなど、ロマーノには全くなかった。
「ロマーノ」
ロマーノは揺れる視界の中でも必死にスペインを見つめ続けていた。スペインが次に何を言うのか、全く予想がつかなかった。
「もうここで『ただいま』と『おかえり』を言うことは、なくなるかもしれへんし、……恋人でもなくなる、けど、親分と子分やったっちゅうのは変わらへんのやから……いつでもおいでな、ロマーノ」
もうここでは『おかえり』も『ただいま』も無い。その事実にロマーノは打ちのめされそうなったが、続いた言葉にさらに胸がぎゅうっと締め付けられる気分になった。だからお前は優しいんだ。今から出て行く奴にそんな言葉を掛ける奴がどこにいるんだと。
ああそうか、ここにいたんだ。自分がたった今までいた、ここに。
「……ああ、分かったよ」
「ロマーノ」
「今度は何だよ」
スペインが息を、吸って、吐いた。まるで何かを決意しているかのようだった。
そして、スペインは口を開く。
「行ってらっしゃい」
スペインはきらきらと光る目でそう言った。
ロマーノはぎゅううっと唇を引き結んだ。今日一番の強さだった。
そして、ロマーノは言った。
「行って来ます」
先程の「ありがとう」にも負けないぐらいに万感の思いがこもった「行って来ます」だった。
それだけ返してロマーノはくるりとスペインに背中を向けた。スペインもそれ以上何も言わなかった。ただロマーノの背後で一度、鼻をすするような音が聞こえた。
ロマーノはひたすらに歩いた。歩いて歩いて歩いてスペインの家がすっかり見えなくなった頃、ロマーノはふとたまらなくなって空を仰いだ。歩みは止めない。だが鼻の奥がつんとして、目尻から涙がぽろりと零れ落ちた。一度奥歯を噛み締めてこらえようとして、諦めた。食いしばった歯を緩めた口から、嗚咽が漏れた。始めこそこらえたような泣き声だったものの、次第にその声は大きくなって、とうとうロマーノは上を向いたままわあわあと泣き始めた。歩くことは止めなかった。泣きながら歩いた。
一八六一年、三月十七日の朝だった。