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璃琉@堕ちている途中
璃琉@堕ちている途中
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いつだって苦しくて、焦がれていて

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振り返れば、これは誠二への愛を自覚した十歳のあの日から現在に至るまで、ずっと続いているのだった。誠二の身体に触れ、あるいは姿を網膜に刻み、愛している己を改めて自覚する間、これは失われることなく、彼女を襲うのだった。
さて、では何故現在、誠二から遠く離れ、日々雑務に追われ、仕舞いには家事の真似事をするようになった現在、彼女は留まることのないこの感覚に身体を耽溺させているのだろうか。

「ハァ………」

矢霧波江は今日五回目の溜息を吐く。胸に手を当て、考える。
これの解決法を、上司ならば知っているのではないか。否、上司以外に知り得ないのではないか。
何故なら、これは件の上司の姿を視界に収めると、一層深刻な状態になるからである。

「ハァ………」

彼女は六度目の溜息と共に階段を上り、書棚の前にて読書に身を投じる上司の元へ向かう。
上司は小難しいような顔をして、英文の解釈に勤しんでいる。その横顔は、実に端正で優美であり、内実を知らぬ者ならば、鼓動を速めることが容易につくられていた。

「どうしたの」

彼はページから視線を外さぬまま、彼女に問うた。最低限の感情、つまり部下が自分の側に無言で立ち尽くしているという状況への疑問を解決したい為だけのエネルギーが、そこには込められている。
ああ、苦しいなぁ。彼女は再び胸に手を当て、呟いた。

「具合が悪いの」
「ふーん…。生理痛?」

冗談なのか本気なのか。上がった口の端を眺めつつ、彼女は事実を報告する。

「今月はもう済んだわよ」
「あ、そう。…ていうか、別に君のそんな事情知りたくないんだけど。じゃあ何、風邪?」
「…風邪って、貴方の所為で罹るものかしら」
「今の台詞、色々おかしいよね。まず、俺からの感染を疑うのならば、貴方の所為で"移る"ものかしら、と訊くのが妥当だろう。そして、俺は君も知っての通り、体調は良好だ。よって、俺は感染源にはならない」

彼は相変わらず文字を拾うのに神経を傾けている。けれど、その口調には揶揄うことが楽しくて仕方ないという底意地の悪さが滲んでいた。彼は至って、普通である。
それに反して、彼女はどこまでもずれていた。

「だってほら、貴方って最低最悪じゃない。神様気取りじゃない、私は悪魔か堕天使だと思うのだけど。だからね、貴方ってウイルスにもなり得るんじゃないかしら」
「…君が俺のことを嫌いなのはよくわかったよ。でもさ、それ以前に」

彼は、漸く彼女を見遣った。

「波江」
「………」
「君、何か、おかしいよ」
「………やっぱり、」

彼女は次いで七回目の溜息を吐く。そして、胸を押さえた。
掴まれたような痛みを堪えつつ、彼女は病状を、自分のおかしさを訴え始める。

「やっぱりおかしいわよね。貴方を見てると胸が苦しくて、痛くて、辛いのよ。貴方に見られると、動悸がする。貴方に睨まれると、胸が締めつけられる。切なくなるというか。でも、貴方が笑うと、私まで笑いそうになるの」
「……………」

饒舌な筈の彼からの返答が無い。代わりにまじまじと瞳を覗き込まれる。
彼女は、これは参ったとばかりに、自嘲した。

「ねぇ、臨也。私、おかしいわよね?」

彼は口を噤んだまま、パタンと本を閉じた。そして、棚にそれを仕舞いつつ、暫し背表紙を指輪の光る人差し指で弄る。
それから、彼女に向き直り、幼子に言い聞かせるように、優しい声音で応えた。

「奇遇だね」
「何が?」
「俺もね、同じ症状で悩んでたところなんだ。君を見てるとね、具合が悪い。俺も、おかしいんだ」
「そうなの…?じゃあ、私も悪魔か何かなのかしら。出来れば、堕天使の方が嬉しいのだけど」
「………うーん、そう来るかい。困ったなぁ」

苦笑する彼。視界が暗く狭くなっていくような不安が、彼女を苛んだ。
すると、僅かに逡巡した後、彼女の様子を見かねたように、彼はこの現象の名を告げた。

「だけどね、波江。俺、これが何なのか、知ってるよ」
「え………?それなら、教えて欲しいわ」
「うん。…あのね」

彼は、事も無げに、けれど、大切なものを磨く時のようにそっと息を吐く。

「これは、恋だよ」

―――沈黙。

「俺は波江に恋をしているんだ。そして、君は俺に恋をしている」

次いで、沈黙。
静寂は広い部屋を包むと同時に、近接する二人の間に漂う空気を支配した。
揺れていた彼女の視線は、真っ直ぐに貫く彼の眼差しに絡め捕られ、結ばれた唇を開かせる。

「恋…?私は貴方が嫌いなのよ?」
「………ね。不思議だよね」
「貴方は、私のことを愛しているんでしょう?…人間として」
「うん。でも、これは、恋なんだ」

何かにつけて壮大な修飾を施した台詞を吐く口が、不思議の一言で片付けてしまう、恋とやら。
その存在を、当然彼女は知っている。けれど、愛しか理解出来ぬ彼女には、到底想像の追いつく現象ではなく。

「…嫌だわ、貴方に恋なんて」

結局飛び出したのは、常日頃、己をおかしくさせる彼への、戸惑いだった。

「俺も嫌だな、こんなの」

彼はあっさり頷き、嘆息する。それが、己へ向けられたのか、彼自身に向かったのかは、彼女には判別出来ない。ただ、その表情が、痛む胸をチクリと突いた。
彼も、自分を恋い慕うのは、嫌なのだ。
それは存外、胸の襞を波立たせ、だから、彼女はせめてもの慰めを自ら与えた。

「でも、貴方が言うなら、きっと…そうなんでしょう」

せめて、彼の言葉を信じてみせることで、微笑む彼を見られたなら、己の唇も弧を描いてくれるだろうから。

「何、随分信用してくれてんじゃない」
「ええ、何だか…腑に落ちたわ」
「そう?それなら、波江は俺が好きなんだね」
「多分ね…」

果たして、彼は微笑を浮かべたのだが。
その穏やかな表情に、彼女は欲を出した。それだけ、その顔は、彼女の胸をざわつかせたのだ。

「だけど、貴方が私に恋をしているっていうのは、信じられないわ」

そう、信じられない。己には、およそ魅力と呼べる部分は何も無い。何故なら、彼女は彼女自身をどうでも良いと思っているから。己を蔑ろにして、己の何を魅せられるのだろう。
それに比べ、彼は彼の魅せ方を知っていたし、長けていた。彼は(例え当人だけが楽しい方向へだとしても)彼を磨くことに余念がない。
さて、そんな正反対の、何も無い己に彼が恋しているなどと、どう理解させるのだろうか。俯いていた彼女の胸元に、彼の手が忍び寄った。

「これでも…?」

重なり、引き寄せられる掌。彼女の右手は彼の鼓動を聴く。それは早鐘のようで、彼女が顔を上げると、大きく跳ね上がった。
彼の心音は、現在の彼女の心臓と、同じメロディーを奏でている。
気づいて、けれど彼女は、首を横に振った。こんなことくらいでは、足りない。

「だって、貴方って最低最悪じゃない。これくらい、平気でやりそうだわ」
「酷いな。でも、俺、これだけは信じて欲しいなぁ…うん、信じて貰いたい」

独り言のように呟いて、彼は彼女の手を解放する。
どこか安堵したのも束の間、流れるように顎を指で傾けられ、彼女はハッと彼を見つめた。

「………っ、」