春のさざめき
春が近づいてくると、千歳はふらっとどこかへ出かけてしまう。
千歳がふらふらとどこかへ出かけてしまうのはいつものことだ。けれど、もはや毎年恒例となったこの時期に出かける千歳は財布も携帯も置いていってしまうからさっぱり連絡がとれない。
最初のうちこそ戸惑ったけれど、もう今年はさすがにああまたか、とぼんやり思うのみだった。
まだ眠い目を擦って布団から起き上がる。分かっていても隣に千歳がいないのは少し寂しい。
顔を洗って適当なパーカーを羽織ってドアを開けた。朝の光がまぶしくて、澄んだ空気がおいしい。
朝の匂いが立ち込める街の中を、ゆっくりと地面を踏みしめながら歩き出した。
千歳と一緒に春を迎えるのはこれで3度目だ。
千歳は結局熊本には帰らなくて、ここに残った。
俺は、千歳の好きなようにすればいいと言った。どうしようか迷う千歳を止めなかった。
もちろん一緒にいて欲しかったけれど、それを伝えて中途半端な気持ちのままここに残られるのは嫌だったのだ。
だから、全て千歳に任せた。
千歳は千歳なりに色々と悩んだみたいだった。テニスのことも実家のことも、俺のことも。
俺は何も口を出さなかった。ただ、千歳が答えを出すのを待っていた。
そして最終的に千歳が出した答えは、大阪に残るというものだった。
嬉しかった。伝えなかったけれど、やっぱりずっといて欲しいと思っていたから。
何よりも俺を一番に選んでくれたっていうことが嬉しくて、ただ千歳に抱きついて馬鹿みたいに泣いてしまった。
それから先はあっという間だった気がする。
受験や卒業、高校の合格発表、入学。目が回るように早かった。忙しかった。
けれど隣に千歳がいるというそれだけがただ幸せだった。今の時間は少なくても、これからの時間は一緒にいられる。
そんな中、千歳が初めに姿を消したのは高校1年の春だった。
ぽかぽかと陽気が降り注ぐ街の中を歩く。
つぼみのついた桜の並木道。あとどれくらいで咲くんだろうか。千歳に聞いたら分かるかな。
春の陽気がぽかぽかと暖かい。上着は要らなかったかもしれない。
姿を消した、と言っても、案外すぐ千歳は見つかった。
起きて、千歳が隣にいないのは時々あることだったけれど、携帯も財布も持たずに長い時間帰ってこないなんてことは無かったはずだから、その2つが置いてあることに気づいたときは戸惑った。
どうしたんだろう、ちょっとその辺に散歩にでも出かけたんだろうか。でもそれにしては長すぎる。
千歳のいない布団をぼんやり眺めていると、なんだか酷く寂しくなって、じわりと不安が溢れてくる。
これから一緒にいられると思っていたのに、まさかどこか知らないところへ消えてしまったんだろうか。
でも携帯も財布も持たずに出たということは、いつもみたいに近くにはいるんだろう。
じっと考え込んで、不安で胸を痛めていてもどうしようもない。そう思って起き上がった。
連絡が取れないというのは不安だけど、きっと近くにいる。
そう考えて家を出て、近くを探し回ってみた、ら、結構あっさり見つかったのだ。
緩やかに続く道をまっすぐまっすぐ進んで、川沿いの道へ出た。
土手にはいっぱいの緑が生い茂っていて、草の匂いがする。
しばらくそれを眺めながらゆっくりと歩いていると、緑の中に黒いもさもさを見つけた。去年とその前と同じように。
口元が少しだけ緩む。俺ははやる気持ちを抑えながらそっとそこに近づいた。
「千歳」
くしゃ、という足元から聞こえる緑の音を聞きながら、土手をゆっくり下り、探し人の元へ。
名前を呼ぶと、黒いもさもさの髪にいっぱい草を巻きつけて、眩しそうにこちらを向いた。
「おはよ」
ふにゃ、と嬉しそうに笑って手を伸ばしてくる。
その大きな手を握り返して、きゅうと指を絡めて、草の上に寝転がる千歳の隣に腰を下ろした。
千歳がもぞもぞと手を動かすたびに、草が手の甲に擦れてくすぐったい。
「お前、勝手にふらふらすんなや」
「春やけん、しょんなかー」
答えになってない。
繋いだ手を軽く揺すりながら咎めるけれど、案の定千歳は気にした様子などまるで無くにこにこと答えた。
優しく笑う瞳と目が合う。もともとそんなに無かった咎める言葉が、瞬間、全てどこかへ消えてしまった。
「春やけん、ね」
微笑みながら頷く千歳に釣られるように俺も頷く。ふ、と小さく息を吐き出しながら。
何年一緒にいても、千歳のこういう柔らかい笑顔だけには勝てないだろうなあと思う。
妙な魔力。絶対に逆らわせない力と言うか。たぶんそれはただの惚れた弱みなんだろうけど。
手を繋いだまま、千歳の横に自分も体を横たえる。
眼前に広がる空が青い。首を動かしてぐるりとあたりを眺めるとさっきの桜の木が目に入る。
「桜、あとどんくらいで咲くかなあ」
「んー…あと一週間とちょいくらい?」
「あはは、ほんま?」
「たぶん」
ちょっと前にオサムちゃんが金ちゃんをからかうために、春の妖精だとかなんだとか言ってた気がするけど、あれはほんとなんじゃないかと思う。妖精というにはちょっとごつすぎうかもしれないけど。
桜が咲いたらお花見したいなあ、またみんなで集まって。なんて空を見上げながらぼんやり考える。
と、いきなり影が差した。いつの間にか起き上がったらしい千歳の顔が目の前。
「ね」
繋いだ手と反対の手が頬を撫でる。くすぐったい。
そうしながら千歳の顔は、というか唇がゆっくりと自分のそれに迫ってくる。
慌てて片手でそれを止めた。
ここは家の中じゃない、外だって。まあもし見られてたら今の時点でもうアウトだろうけど。
「ちょっ、だめ」
「誰も来んけん」
ね、と微笑まれるとやっぱり何も言えなくなる。
それに千歳の誰も来ない、は今まで外れた事がない。
「ん、」
もう拒みようもなかったから、そのまま千歳の唇を受け入れた。
目を閉じればちちち、とか小鳥の鳴き声がする。なんだか妙な背徳感。
柔らかい唇が何度も何度も優しく触れる。くすぐったいようなもどかしいようなじわじわとした気分になる。
ふと、頬に触れていた手が離れる。そして前髪のあたりにくしゃ、という感覚。
名残惜しそうにぺろりと俺の唇を舐めて、ゆっくりと千歳は唇を離した。
そして囁く。
「今年も、蔵に幸せがたくさんきますように」
前髪のあたり、さっき千歳が触れたところに手を伸ばしてみる。細くて軽くて小さな感触。
そっと掴んで陽にかざしてみれば、やっぱり。
「クローバー…」
綺麗に葉の揃った四葉のクローバーだった。
千歳は、2年前初めて姿を消したときもこうやって四葉のクローバーを俺にくれた。
あの時は不安やら嬉しさやらが混じりまじって、なんだかよく分からないままぼろりと泣いてしまった記憶がある。今となっては少し恥ずかしい。
そして去年も、千歳はこんな風に俺にくれた。
去年は1本増えて2本。後ろから俺を抱きしめて、そっと手の中に握らせた。
「…おおきに」
そして、今年。
俺の手の中には千歳がくれた四葉が3本。これで3回目。
年々掌の中の幸福は増えていく。
潰さないように気をつけながらぎゅっと握り締めた。
千歳がふらふらとどこかへ出かけてしまうのはいつものことだ。けれど、もはや毎年恒例となったこの時期に出かける千歳は財布も携帯も置いていってしまうからさっぱり連絡がとれない。
最初のうちこそ戸惑ったけれど、もう今年はさすがにああまたか、とぼんやり思うのみだった。
まだ眠い目を擦って布団から起き上がる。分かっていても隣に千歳がいないのは少し寂しい。
顔を洗って適当なパーカーを羽織ってドアを開けた。朝の光がまぶしくて、澄んだ空気がおいしい。
朝の匂いが立ち込める街の中を、ゆっくりと地面を踏みしめながら歩き出した。
千歳と一緒に春を迎えるのはこれで3度目だ。
千歳は結局熊本には帰らなくて、ここに残った。
俺は、千歳の好きなようにすればいいと言った。どうしようか迷う千歳を止めなかった。
もちろん一緒にいて欲しかったけれど、それを伝えて中途半端な気持ちのままここに残られるのは嫌だったのだ。
だから、全て千歳に任せた。
千歳は千歳なりに色々と悩んだみたいだった。テニスのことも実家のことも、俺のことも。
俺は何も口を出さなかった。ただ、千歳が答えを出すのを待っていた。
そして最終的に千歳が出した答えは、大阪に残るというものだった。
嬉しかった。伝えなかったけれど、やっぱりずっといて欲しいと思っていたから。
何よりも俺を一番に選んでくれたっていうことが嬉しくて、ただ千歳に抱きついて馬鹿みたいに泣いてしまった。
それから先はあっという間だった気がする。
受験や卒業、高校の合格発表、入学。目が回るように早かった。忙しかった。
けれど隣に千歳がいるというそれだけがただ幸せだった。今の時間は少なくても、これからの時間は一緒にいられる。
そんな中、千歳が初めに姿を消したのは高校1年の春だった。
ぽかぽかと陽気が降り注ぐ街の中を歩く。
つぼみのついた桜の並木道。あとどれくらいで咲くんだろうか。千歳に聞いたら分かるかな。
春の陽気がぽかぽかと暖かい。上着は要らなかったかもしれない。
姿を消した、と言っても、案外すぐ千歳は見つかった。
起きて、千歳が隣にいないのは時々あることだったけれど、携帯も財布も持たずに長い時間帰ってこないなんてことは無かったはずだから、その2つが置いてあることに気づいたときは戸惑った。
どうしたんだろう、ちょっとその辺に散歩にでも出かけたんだろうか。でもそれにしては長すぎる。
千歳のいない布団をぼんやり眺めていると、なんだか酷く寂しくなって、じわりと不安が溢れてくる。
これから一緒にいられると思っていたのに、まさかどこか知らないところへ消えてしまったんだろうか。
でも携帯も財布も持たずに出たということは、いつもみたいに近くにはいるんだろう。
じっと考え込んで、不安で胸を痛めていてもどうしようもない。そう思って起き上がった。
連絡が取れないというのは不安だけど、きっと近くにいる。
そう考えて家を出て、近くを探し回ってみた、ら、結構あっさり見つかったのだ。
緩やかに続く道をまっすぐまっすぐ進んで、川沿いの道へ出た。
土手にはいっぱいの緑が生い茂っていて、草の匂いがする。
しばらくそれを眺めながらゆっくりと歩いていると、緑の中に黒いもさもさを見つけた。去年とその前と同じように。
口元が少しだけ緩む。俺ははやる気持ちを抑えながらそっとそこに近づいた。
「千歳」
くしゃ、という足元から聞こえる緑の音を聞きながら、土手をゆっくり下り、探し人の元へ。
名前を呼ぶと、黒いもさもさの髪にいっぱい草を巻きつけて、眩しそうにこちらを向いた。
「おはよ」
ふにゃ、と嬉しそうに笑って手を伸ばしてくる。
その大きな手を握り返して、きゅうと指を絡めて、草の上に寝転がる千歳の隣に腰を下ろした。
千歳がもぞもぞと手を動かすたびに、草が手の甲に擦れてくすぐったい。
「お前、勝手にふらふらすんなや」
「春やけん、しょんなかー」
答えになってない。
繋いだ手を軽く揺すりながら咎めるけれど、案の定千歳は気にした様子などまるで無くにこにこと答えた。
優しく笑う瞳と目が合う。もともとそんなに無かった咎める言葉が、瞬間、全てどこかへ消えてしまった。
「春やけん、ね」
微笑みながら頷く千歳に釣られるように俺も頷く。ふ、と小さく息を吐き出しながら。
何年一緒にいても、千歳のこういう柔らかい笑顔だけには勝てないだろうなあと思う。
妙な魔力。絶対に逆らわせない力と言うか。たぶんそれはただの惚れた弱みなんだろうけど。
手を繋いだまま、千歳の横に自分も体を横たえる。
眼前に広がる空が青い。首を動かしてぐるりとあたりを眺めるとさっきの桜の木が目に入る。
「桜、あとどんくらいで咲くかなあ」
「んー…あと一週間とちょいくらい?」
「あはは、ほんま?」
「たぶん」
ちょっと前にオサムちゃんが金ちゃんをからかうために、春の妖精だとかなんだとか言ってた気がするけど、あれはほんとなんじゃないかと思う。妖精というにはちょっとごつすぎうかもしれないけど。
桜が咲いたらお花見したいなあ、またみんなで集まって。なんて空を見上げながらぼんやり考える。
と、いきなり影が差した。いつの間にか起き上がったらしい千歳の顔が目の前。
「ね」
繋いだ手と反対の手が頬を撫でる。くすぐったい。
そうしながら千歳の顔は、というか唇がゆっくりと自分のそれに迫ってくる。
慌てて片手でそれを止めた。
ここは家の中じゃない、外だって。まあもし見られてたら今の時点でもうアウトだろうけど。
「ちょっ、だめ」
「誰も来んけん」
ね、と微笑まれるとやっぱり何も言えなくなる。
それに千歳の誰も来ない、は今まで外れた事がない。
「ん、」
もう拒みようもなかったから、そのまま千歳の唇を受け入れた。
目を閉じればちちち、とか小鳥の鳴き声がする。なんだか妙な背徳感。
柔らかい唇が何度も何度も優しく触れる。くすぐったいようなもどかしいようなじわじわとした気分になる。
ふと、頬に触れていた手が離れる。そして前髪のあたりにくしゃ、という感覚。
名残惜しそうにぺろりと俺の唇を舐めて、ゆっくりと千歳は唇を離した。
そして囁く。
「今年も、蔵に幸せがたくさんきますように」
前髪のあたり、さっき千歳が触れたところに手を伸ばしてみる。細くて軽くて小さな感触。
そっと掴んで陽にかざしてみれば、やっぱり。
「クローバー…」
綺麗に葉の揃った四葉のクローバーだった。
千歳は、2年前初めて姿を消したときもこうやって四葉のクローバーを俺にくれた。
あの時は不安やら嬉しさやらが混じりまじって、なんだかよく分からないままぼろりと泣いてしまった記憶がある。今となっては少し恥ずかしい。
そして去年も、千歳はこんな風に俺にくれた。
去年は1本増えて2本。後ろから俺を抱きしめて、そっと手の中に握らせた。
「…おおきに」
そして、今年。
俺の手の中には千歳がくれた四葉が3本。これで3回目。
年々掌の中の幸福は増えていく。
潰さないように気をつけながらぎゅっと握り締めた。