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青に打ちのめされた

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それは一種の呼吸だった。胃が食事を拒否するようになったのはSSSが成立して暫くが経ってやっと落ち着いてきた頃だった。生理現象として腹は減る。カツ丼を見れば唾が出るし、食った後の満腹感はそれなりに俺を幸せにした。だが、ある日屋上でゆりっぺの後姿を何とはなしにぼうと見ていた時、ぐ、と腹の底から熱がこみ上げてきて、ぐらり、視界が、彼女の背中が、歪んだ。気づいた時には膝をついていて、「ちょっと!日向くん?日向くん!」、彼女の温かい手が背を撫でる度にカツ丼やらラーメンやらオムライスだったであろうそれたちがぺちゃぱちゃと池をつくった。跳ねたそれらが彼女のスカートに模様をつくろうとも、それに嫌悪する素振も見せないどころか、彼女はとっさに自らのセーラー袖を握り締めそれをぐいぐいと押し付けてくる始末だった。黄色く粘ついていた俺の唇がひりひりと痛む頃には彼女の白かったそれは、何とも言いがたい色と臭いに染まっていたが彼女は焦れったそうに腕まくりをして俺の肩を担ぐと転がるように階段を下りていったのだった。女子ならハンカチくらい持っておけよ、そう言ってやれればよかった。彼女のひとみに少しでも、これっぽっちでもいいから嫌悪の色があればよかった、そこには困惑はあれど、ただ真直ぐなその光にどうしようもなく目が眩んで、ごぷり、屋上からしばらくは点々と黄土色の足跡が続いた。色の無い目をした保険医は「あらまぁ、寝てれば治ると思うから今日は授業諦めて寝ていなさい。」と微笑んだ。俺をそこまでずるずると引きずってきた彼女は肩で息をしながら、「そう、ですか。」俺をベッドに放り投げるとどかりと脇のパイプ椅子に腰掛け、「いいから、寝なさい。」ごめんな、そう言う暇も無く彼女の温かい手にそって俺の視界は強制シャットダウン。次に目を覚ました時に視界に入る彼女の袖が白くなっていることを願って。
その願いは届いた、彼女のセーラーはいつものようにしゃんとした清潔感に溢れていた。それどころかあちらこちらに模様を作っていた俺のシャツやズボンまで清潔なものに変わっていて、この女まさか、と思い切り顔を上げれば彼女の隣には俺を見てぱああと顔を綻ばせた大山が、「日向くん!よかった!気分はどう?」お前のおかげで最高だよ、親友。この男が着替えさせたという確証は無いが可能性があればそれで十分だった。「それで、どうなの?」腕を組んで仁王立ちしていた彼女が口を開いた、「気分は?」、ああ、もう大丈夫だ。ちょっと頭がぼんやりするくらい。そう言えば彼女は安堵の表情を見せることなく、そう、と。「…病まない世界の、はずなのだけれど。」、確かに吐き気を催したのは初めてだったが、この世界だって痛みがない訳ではない、蹴られれば痛いし、寝不足にだってなる。死ぬ痛みを味わうのに死ねない、いや、死んでいる、のだけれど。だから、ちょっとおろおろ吐こうとそれは特別異常なことではないとおもう。「…そう、そうね。」彼女のリボンが、揺れる、「ただ、あなたの様子が、あまりにも、辛そうだったから。食べすぎや食あたりの類には思えなかったのよ。いくら日向くんがよく食べるからって、あの嘔吐の量…。吐くものが無くなってもずっと胃液を吐いていたしね…大丈夫ならいいわ。」そこまで言うと彼女はスカートを翻し、保健室を出て行った。あの保険医はいないようだった、「ゆりっぺ、心配してたよ。なんだかすごい重症そうだって聞いてたけど元気そうでよかった。」ふわり、微笑む。全くよく笑う奴だ、「…ゆりっぺは何か、今回のことで思うところがあるようだけれど。」
結局その日は寝て終わった。次の朝には全快、朝飯もうまかった。それを見て彼女のひとみに安堵の色が広がったのには参った、なんだよ、全くらしくない。このままでは居心地が悪いので今度何か奢ってやろう。そう心に決めて見せ付けるようにスプーンを口に運んだ。だが、それは再び訪れた。今度は男子トイレだった。用を足して手を洗って、ふと、鏡を見た、その時にそれはこみ上げてきた。喉が焼けるように熱くなり、とっさに飲み込もうとしたそれが悪かったらしい、熱は喉から鼻まで上り、やはり鏡は黄土色に染まった。そこに居合わせたNPCがざわつき出す、やばい、大山にでも見つかったらまた、浮かんだのは揺れるリボン。俺はだらしなく開きっぱなしの口を両手で押さえて個室に駆け込んだ。膝をつき便器に顔を突っ込む。つん、と鼻につく異臭に涙が出た。おかしい、おかしい、だって朝飯はいつも通りうまかったし、昼はまだ食ってない、当然出るものはそう多くなく、ただただ胃液を流し続けた。その後もそれは続いた。続いた。何を食べても、食べなくても、それは続いた。やけになって馬鹿みたいに腹に詰め込めばその分出す量が増えただけだったし、嫌になって何も食べなければ胃液がだらだらと流れていくだけだった。ただひたすら続くそれに、当然俺は慣れていった。味覚は無くなった訳ではなかったが、食事の度にこれはあと何時間したら俺の口から出ていくのだろうか、と考えるようになった。それがうまいかと聞かれたら、まぁ、想像にお任せする。しかし非日常もそれが毎日となれば日常になる、それは一種の呼吸となった。寝るのと起きるのがカップルであるように、食事と嘔吐がカップルになった、それだけのこと。そう割り切ってしまえば、なんでもない。なんでもないのだ。生きてるけど死んでる、死んでるけど生きてる、神への復讐を企む少女がいれば、手から刃物が生やす猟奇的な天使がいるような世界だ。幸い、目に見えて痩せるということもなかった。食事に後に一人でトイレに行き、それを出す。ひたすらそれを続けた。

それが一度、止まった。音無がSSSに加わった。見るからに生気の無い、まぁ生きてないから云々の突っ込みは置いておくとして、やる気のなさそうな男だった。ゆりっぺが何を言ったのかは知らないが、ほいほいと天使に向かっていき心臓を一突き。揚句野田のアホに切り刻まれ校長室のトラップにかかって、こう振り返ってみるとあいつも散々な目に遭っているけれど。明らかにお前らなど信用していないという目をしていたくせに、無気力なくせに感情的でどこか放っておけない色を纏っていた。なんだろう。どこか、どこだかはわからないけれど、どこか彼女に似ていたのかもしれない。俺が傍に居てやらなければ、そう思わせる何かが、あいつにはあった。俺、日向。さっきゆりっぺが言ってたようにここは結構古いんだ、何かあったら言ってくれよな、「ああ、よろしく。」握った手は固かった。そしてその日、もうどれほどぶりか忘れてしまうほど続いていたそれが、止まった。こんなこともあるのか、と。まぁ吐かないなら吐かないでいい、久々の非日常に少し胸を躍らせながら眠りについた。
作品名:青に打ちのめされた 作家名:きいち