夜を駆けていく
猫はただじっと見ている
キッドの住む島に、『貴族』が『興行』をしに来るのだという噂がスラム街にまで届けられたのは、今朝のことだった。
身寄りのない子供たちが集まってできた小さな組織のボスとして君臨しているキッドは、仲間の悪ガキたちが拾ってくる情報をいの一番に聞くことができるという利点に預かっている。
「貴族……? わざわざ別の島からか?」
「そう。なんでもグランドラインから来るらしいですよ、キッドの頭」
「へぇ……。そいつはご苦労なこったな」
ハッ、と思わず吐き捨ててしまうのは、貴族という身分と興行目的というくだりに、言いようのない腹立たしさを覚えるからだった。
スラム街で生まれ育ったキッドたちが裕福であったときなど一度もない。
子供の頃から大人の財布を狙い、料理店の残飯を漁って飢えをしのぎ、ときには強盗紛いの手段を取ってでも生きることを選択してきた。
苦労の数だけなら、丘の上に住む上流階級の大人たちなんかより、よほど多く背負ってきているだろう。
「興行ってのはなんだ?」
「噂では、珍しい生き物を連れてくるんだとか、そんなことを言ってましたよ」
質問に答えている長身で灰色の長い髪を持つ男は、キッドのブレーンとも言える存在だった。丘の上付近にもよく足を延ばして、スラム街にはまず入ってこない情報や話題を集めて持って帰ってくるのである。
「珍しい生き物、か……。そいつを見るために金を取るとか、そんな感じか?」
「恐らくは。変わり者の貴族もいるってことですかね」
「欲の皮が突っ張りまくっているってだけだろ」
キッドが皮肉を口にすると、幼馴染のキラーが「違いない」と同意していた。
「港に行けば、姿だけでも拝めるかな」
「……行くのか? キッド」
仮面を被っていることで表情がまったく伺えないキラーの声には「やれやれ」という響きがある。
「ハハッ、面白そうには違いねぇじゃねぇか。どんな珍獣がやってくるっていうんだ? たまには『娯楽』に興じるのも悪くねぇ」
毎日が生きることだけで精一杯だった本当に子供の頃と比べたら、現在はいくらか余裕ができている。悪ガキは悪ガキなりに知恵をつけて、スラムを牛耳っている大親分とも取引を交わせるくらいには大きくなっていたのだ。
それでも、贅沢と呼べるようなことはしたことがなかったし、相変わらずスリや強盗めいた行為をやめることはなかった。
生きていくためにはそうするしかないのだ。
キッドは、今の自分の居場所がこの世の底辺だと信じて疑わなかった。
悪ガキ仲間だけでなら、一つの夢がある。
それは子供らしいといえばそうだが、生い立ちを考えてみると不憫ともいえる夢だった。
キッドたちはいずれ大金を掴んで金持ちになって、スラムの街から飛び立とうと思っているのだ。
この世の底辺にうずくまったまま一生を終えるなんて馬鹿らしい。翼を得て、大海原へと旅立って、自由にやりたいことをして過ごすのだ。
世間一般的にそういった人々を『海賊』と呼んだから、キッドたちの夢も海賊になることだった。
けれどその夢を叶えるためには、あとどれくらいの時間と労力が必要なのだろうか。
未来に対する足がかりとなるものも、具体的な算段もなかったことから、ただ気ばかりが焦っていく。
そういう現実に歯噛みしているときに舞い込んだニュースである。貴族のことなどどうでもいいが、一緒にやってくる珍しい生き物とやらにはクサクサした気分を解消させる効果もあるのではないかと、キッドは興味を抱いたのだった。
*
「ローさん。もうすぐ島に到着するそうですよ」
「……ん、わかった」
台詞だけなら聞き分けがよさそうな返事だったけれど、それを口にした人物の表情は暗く、モゾモゾと気のない素振りで上半身を起こして「ふぅ」と、ため息をついている。
その際に、チリン、というかわいらしい鈴の音が鳴っていた。
「大丈夫ですか? どこか具合が悪かったらまだ寝てても……」
「平気だ。もう何度目になると思っているんだ」
貴族の道楽に付き合わされて船旅を続けること、早十年。ローは陸上生活よりも海上生活のほうが長くなっている。
波の上に揺られ続けて、島から島へと渡り歩く生活。潮の香りにも、恐ろしい嵐の海にもすっかり馴染んでしまった。
「あふっ……」
遠慮なく大きな欠伸をもらしたローを、近くにいた二人の男が見て笑う。
「滞在が短く済むといいですね」
「……そうだな。この前みたく三週間もあったら気が狂っちまう」
「あー、あのときは本当にヤバかったですもんねぇ」
過去を思い出したように何度も頷く大きな帽子を被った男は、腕を伸ばしてローの髪の毛を整えるようになでた。表面上はそうであっても労わるような意味合いも含まれている行為に、ローは黙って身を預けている。
「とりあえず、暖かい島みたいでよかったな」
「そうだね。船の中も暑いくらいだ」
二人の会話に、ローも船室内の空気と温度を意識して肌で感じとってみた。島の気候地域に入るくらい陸地が近くなっているのだろう。
もう、すぐだ。
またあの日々が始まる。
やってくる未来に、慣れているとはいっても気持ちが重たく沈んでいってしまう。
俯きがちになっていたローを気遣うように、二人の明るい声がかかった。
「ローさん、おれらは絶対にあなたのそばを離れませんから」
「そうだよ、なんでも言ってよ。どんなことだって叶えてみせるからさ」
「……ペンギン、シャチ」
二人はローの手をそれぞれ握っていた。
誓いを立てるかのような行為は、新しい島へ到着するたびに毎回行われている儀式のようなもの。
実際のところはペンギンにもシャチにも大きなことができるわけではないのだが、それでも心意気だけはいつでも最上であることを示すために、毎回決まって同じ言葉を口にするのだった。
ローは何も言わなかったけれど、握る指に込める力が増していくことで、ペンギンたちはそれを返事の代わりにしていた。
*
船が港へ到着した。
さすがは貴族が所有しているものだと一目でわかる大きなガレオン船に、港へ来ていたキッドたちも圧倒されていた。
「すげぇな」
「あれだけのクラスは、丘の上の連中でも持ってないでしょうねぇ」
「いつかおれたちの船にしたいな……」
ボソッと呟くようにささやかれたキラーの言葉は、キッドの胸に深く刻まれるものだった。
──そうだ、いつか必ず……。
この島を出て行くのだという思いを強くしたあとに、ガレオン船の中から大量の荷物と人間が上陸をし始めていた。
「何日居座るつもりなんだ?」
「貴族ってのは、荷物が多いんですよ、キッドの頭」
「ハッ、無駄なものにまで金が掛かっているんだな」
胸クソ悪い連中だと皮肉に唇を歪ませながらも、キッドは『珍しい生き物』が下ろされるときを待った。
ややあってから、黒い布に覆われた車輪のついた乗り物が、港へ滑るように降り立っていた。
「あれか?」
「恐らく……」
「……チッ、布に覆われて見えねぇじゃねぇか」
「まぁ、目玉なんだろうからな」