夜を駆けていく
そう易々とお披露目してしまったら、商品としての価値が下がるのだ。理屈では納得できても、それを目当てで来ていただけにガッカリ感は増していく。
もとより貴族がスラム街へなど来るはずがないのだ。丘の上にはごく一部の例外を除いて、スラムに住む連中が入れることはない。
だから、姿を拝むチャンスは港から丘の上へと至る一本道だけしかなかった。
下町と呼ばれる上流階級には届かない層が暮らす坂下の通りを、キッドたちは車輪を追うように歩き出した。
どこかで、ひょっとしたら中を拝める機会に恵まれるかもしれないではないか。
ガラガラと重たい音を立ててゆっくりと進む車を引いているのは、動物ではなくて人間だった。
彼らは『奴隷』と呼ばれる身分の人間たちで、貴族に仕え、文字通り馬車馬の如く働かされた末に命の終焉を迎える運命をつかまされている。
その人力車が運んでいるものの中身は、キッドたちが推測したとおりの『珍しい生き物』だった。
周囲を黒い鉄の棒で囲まれた中にいる生き物は、暗い視界の中で身じろぎ、上半身を倒して檻の外へと顔を向けた。
「シャチ。外が見たい」
「了解。……でも一瞬だけですよ?」
「わかってる」
「……じゃ、いきます、よ!」
ボソボソと小声で交わされた短い会話のあとで、シャチの悲鳴があがる。それと同時に黒い布がふわりと、巻き上がっていた。
パァッ、と差し込んでくる日差しに生き物ことローは軽く目を細めながらも、見たかった外の景色を焼き付けようと、布が落ちきる瞬間まで瞬きもしないでまっすぐ正面を見つめていた。
すると。
「……あ」
目が会ったのだ。どこの誰だかも知らない男と、ほんの数秒間、互いに見つめ合った。
布が落ちて、またローの周囲が暗くなっていく。
「……」
心臓がドキドキとうるさいくらいに鳴り響いている。
すごく驚いた。あんな風に他人と目を合わせたことは一度もなかったのだ。
ローが心の底から気を許して接しているのは、ペンギンとシャチの二人だけ。あとの人間たちなんて大袈裟ではなく『その他大勢』の存在でしかなかった。
ろくに目を合わせたことも、会話をしたこともないのが普通で、それは貴族相手でもそうだった。
生意気だと叱られ、蹴られたり、殴られたりしても頑なに目を合わせようとしなかったローの意思は鉄壁で固く、難攻不落でもあった。
それなのに。
あの視線から目を離すことができなかった。こんなことは本当に初めてで、ローは何故と戸惑う心を持て余して、バクバクと激しい鼓動を打ち続ける心臓の位置に手をやり続けていた。
燃えるような赤い髪の毛と、鋭い目つきを持った、がっしりとした体格の男。思い出すだけで、何故だか顔が熱くなる。
ローが軽く心臓の上を叩いて落ち着かせようとした拍子に、チリンという鈴の音が檻の中にとどろいていた。
*
黒い布に覆われた人力車のかたわらに付き添っていた男が、何もない道の上で突然転んだのだ。
車のスピードに合わせて移動していたキッドは、その見事なまでの転倒ぶりに一瞬だけ目を奪われ、けれどすぐ隣で巻き上がった布の動きも同時に捉えていた。
「──!」
黒い布の向こうは鉄の檻で囲まれており、光が差し込んだ内部には、まさしく奇妙な生き物がいたのである。
身をかがめて、外をうかがうように覗き込んでいたのは人間のような生き物だった。
ような、とついてしまうのは、その人物の頭に耳が生えていたからだ。猫のような三角形の二つの耳。首には黒い革っぽい素材の首輪。そこにはご丁寧に鈴までついてあった。
猫と人間が合わさったらあんな風になるのではと、想像するままの姿をした生き物が、檻の中からじっとキッドのことを見つめていたのだ。
藍色の短い髪の毛。ブルーグレーの双眸。二つの瞳に見つめられたキッドは、その視線を外すことができなかった。
一つには単純な物珍しさから。そしてもう一つには、キッドが知らなかった現実を目の当たりにしたからだ。
派手に転んだ男は、布が元通りに納まるのと同時に立ち上がり、何事もなかったかのように再び歩き出していた。
キッドはもう車のあとを追わなかった。
「見たのか? キッド」
「ああ……」
「どんな生き物でした?」
布が巻き上がったのはほんの数秒のことだった。目の前にいたキッド以外には見えなかったのだろう。
好奇心からもたらされる問いかけに、しかしキッドは答えることを少しだけ躊躇していた。
例えばあの中にいたのが完全な動物の姿だったら。もしくは本当の珍獣であったなら。仲間たちにも嬉々として教えてやれたのに。
「……猫」
「えっ?」
「猫、みてぇな奴だった」
いくらか悩んだ末に、キッドはそれだけを答えた。
「猫?」
仲間たちは不思議そうにキッドを見て、次に彼らたちだけで顔を見合わせて首を捻っている。
『猫みたいな奴』だけで伝わるとはキッドも思っていない。何が珍しいのだと問い返したいのだろうけど、彼らはありがたいことにそれをしてこなかった。
キッドの雰囲気を敏感に察してくれたのだろう。
いい連中だと、改めて思う。
貴族たちの行列が丘の上へと向かうにつれて、通路や建物の窓から人の姿が消えていく。
自分たちには縁のない見世物だけど、いったい何を連れてきたのだろうという騒ぎにはなっている。
それらの声が響く中を、キッドは仲間を促して自分たちの故郷へと引き返していった。
キッドは道を歩きながら檻の中に閉じ込められていた存在のことを、ずっと考えていた。
港の前を通り過ぎ、狭い通路の奥の、さらに奥地へ入ったところにあるスラム街。
ここは底辺だと思っていた。
だが、檻の中に閉じ込められながら生きるよりは、遥かにマシなことのように思えて仕方がなかった。
──ありえねぇ……。
馬鹿なことを考えている。どちらにしても、底辺であることに変わりはない。
スラム街のアジトへ戻ってきたキッドは、ギシギシとたわむ椅子に腰掛けながら、早くこの島を出て行くためのいい方法を考えなければと改めて思った。
*
「この、グズが!」
ビシッ、と鞭のしなる音に、ローは檻の中で首を竦めた。
「数名のものに姿を見られたそうじゃないか!」
また鞭で叩かれる音が響く。
貴族の振るう鞭に身を縮こまらせて耐えているシャチは、悲鳴の一つも口にしないでいた。
「お前が『猫付き』でなかったら、即刻打ち首にしたものを……!」
その言葉にローが発作的に動こうとしたのを、後ろから伸びてきた手に腕を掴まれて止められる。ちらりと振り返った先のペンギンは、軽く首を振って何もするなと訴えていた。
「……」
ギリ、と思わず奥歯を噛みしめる。そうしなければいけない正しさに、ローも渋々と肩の力を抜いた。
貴族の与える罰はその後もしばらく続き、ローがいい加減ぶち切れそうになった数秒前で終わった。
「お前はこの島にいる間中、飯は抜きだ」
「……はい」
シャチは神妙に返事をする。これ以上引き伸ばされないための方便だ。
ボディガードを伴った男が部屋から出て行くと、辺りに満ちたピンと張った空気も解れていた。
「はぁ……!」
「シャチ! 大丈夫か!?」