踊りませんか次の駅まで
すし詰め状態の通勤電車の中、栄口は隣の男性のイヤホンから溢れる耳障りな音のほうへ意識を逸らそうとしている。じわじわとブレーキがかかり、たくさんの人がまるで一つの塊になって自分を押し潰しにかかってきた。いつもなら口から内臓が出てしまいそうな圧迫感が、昨日からずっと頭の中にわだかまりが残っているせいか脳みそが重力に弾かれそうになった。そのまま慣性の法則に則って見えなくなるまで、考えられなくなるまで遠くに行ってしまえばいいのにな、オレの脳みそ。浮かんだぼやきはため息に変わって漏れた。
この男性は一体どの程度の音量で音楽を聴いているのだろう。半径一メートルにはシャカシャカとしか例え様のない不快音が響き、栄口は頼まれもしないのに男性の鼓膜の心配をした。
そんなシャカシャカを即席で心の拠り所にしていたから、音に連れられ、開くドアへと向かう人の波に飲まれてしまった。ホームへ吐き出されたときにはもうシャカシャカは他の音にかき消され、どこにも見当たらない。人の群れがごうごうと出口へと向かうなか一人ぼんやり立ち尽くし、栄口が普段とどこか雰囲気が違うなと気づいたときにはもう遅い。乗り直そうと振り返ったら聴き慣れている、割れたオルゴール音がぴたりと止まった。
「ドアぁ閉まりまァす」
踏み出そうとした足先は間に合わないことを理解していたから、次の駅へと行く満員状態の電車を見送った。
あとひと駅、シャカシャカが我慢してくれればこんなことにならなかったのに。見当違いに愚痴り、次の電車を待つ。多少寝不足だからか身体全体が妙な熱気にまとわり付かれ、電車は間もなくやって来るとはわかっていても落ち着かない。指先がはらはらする、首周りがなんだか息苦しい。
ネクタイを少し緩めようと栄口が固い結び目へ指をかけたとき、奥の奥の方へと押しやっていた記憶が熱に浮かされぺらりとはがれた。
(他人のネクタイってなかなか取りにくいんだな)
乱暴に引き抜かれたけれど行方は大して気にならず、それよりも開け放たれた首元へ伸ばされた指がボタンを器用に外していく動きを見ていたかった。栄口がくすぐったくて小さく笑うと、水谷もつられるように頬を緩める。水谷が締まりのない顔をしているのはいつものことだったが、昨日はもっとへらへら、にこにこ、いやニヤニヤ? していたから、こういうのもいいかなとその時点で考えるのを止めてしまった。「水谷」と名前を呼ぶと必ず「栄口」と返ってくるのが妙に嬉しくて何度も何度も名前を呼んだ。世界がそこで完結していた。恐ろしいまでにパーフェクトだった。
酔っていたから、だけでは片付けられない。水谷とは高校の頃からの付き合いなのだ。二十九の今までずっとつるんでいるから、もしかしたら親友と呼べるのかもしれない。二人で一緒にバカやって、それこそ記憶が飛ぶまでアルコールが回ったこともあったけど、昨日みたいなことには決してならなかった。
セーブが利かなくなるまで飲めるくらい若かったなら、昨日のことは跡形もなく全て忘れていただろうか。まるで電車が一両ずつ目の前を過ぎるかのように記憶は切れ切れだ。断片的に繰り返されるのは水谷の指が、舌が、身体を這い、確かズボンは自分で脱いだこと。
(まずキスしてみて嫌じゃなかったっていうのは詐欺だよなぁ……)
対峙しているのは水谷とわかりきっているのに、深い瞳の色に煽られて仕方なかった。最初はほんの冗談のつもりで、区切りのいいところで笑い飛ばして収まるはずだった。お互いを試し試されるうち我慢比べになったのかもしれない。もうやめて欲しいと口にしたら水谷に屈してしまうような、微妙なプライドもあった。
もっと問題なのは「やめて欲しい」なんてこれっぽっちも思わなかったことだろう。
水谷が何度も軽く唇を付けてくるのを栄口はされるがままに受け止め、相手は友達、しかも男だったけれど変に気持ちが踊って足の指が騒いだ。近頃じゃめったになかった甘いような酸っぱいような気持ちが胸を満たし、小さく首かしげた水谷が「まだ平気?」と言う。ゆっくり頷くと水谷はまた目を閉じ、おずおずと舌を入れてきた。口の中で自分の体温と水谷の体温が溶けて混ざる感じが癖になりそうで、もっともっとと貪欲に舌を絡める。けれど頭の中は冷静に「水谷はこんなふうにキスするんだな」ということを考えていた。水谷がどんな顔をしているか気になって薄目を開けると、瞼のあたりがうっすらとキラキラして見え、やたら気持ち良さそうにしているのがわかった。オレとキスしてこんな顔なっちゃってバカだな水谷。栄口の中にじわじわと何かが湧き上がる。口の中でせわしない舌を捕らえ、軽く吸ってやると身体を震わせた水谷から鼻先から甘い声が抜けた。
(ずるい、反則……)
(水谷が下手なんじゃないの?)
安易な挑発にでもすぐ乗ってしまう相手だということを知っていた。これ以上水谷を焚き付けてオレはどうするつもりなんだろう。栄口の疑問をよそに仕返しのキスは深く、外側の形はそのままに、内側からどこも無様に溶けそうになる。指先も乱暴に絡め取られ、触れ合う指と指の節は痛いくらいなのに熱く、もどかしい。
(してもいい?……っていうか)
この男性は一体どの程度の音量で音楽を聴いているのだろう。半径一メートルにはシャカシャカとしか例え様のない不快音が響き、栄口は頼まれもしないのに男性の鼓膜の心配をした。
そんなシャカシャカを即席で心の拠り所にしていたから、音に連れられ、開くドアへと向かう人の波に飲まれてしまった。ホームへ吐き出されたときにはもうシャカシャカは他の音にかき消され、どこにも見当たらない。人の群れがごうごうと出口へと向かうなか一人ぼんやり立ち尽くし、栄口が普段とどこか雰囲気が違うなと気づいたときにはもう遅い。乗り直そうと振り返ったら聴き慣れている、割れたオルゴール音がぴたりと止まった。
「ドアぁ閉まりまァす」
踏み出そうとした足先は間に合わないことを理解していたから、次の駅へと行く満員状態の電車を見送った。
あとひと駅、シャカシャカが我慢してくれればこんなことにならなかったのに。見当違いに愚痴り、次の電車を待つ。多少寝不足だからか身体全体が妙な熱気にまとわり付かれ、電車は間もなくやって来るとはわかっていても落ち着かない。指先がはらはらする、首周りがなんだか息苦しい。
ネクタイを少し緩めようと栄口が固い結び目へ指をかけたとき、奥の奥の方へと押しやっていた記憶が熱に浮かされぺらりとはがれた。
(他人のネクタイってなかなか取りにくいんだな)
乱暴に引き抜かれたけれど行方は大して気にならず、それよりも開け放たれた首元へ伸ばされた指がボタンを器用に外していく動きを見ていたかった。栄口がくすぐったくて小さく笑うと、水谷もつられるように頬を緩める。水谷が締まりのない顔をしているのはいつものことだったが、昨日はもっとへらへら、にこにこ、いやニヤニヤ? していたから、こういうのもいいかなとその時点で考えるのを止めてしまった。「水谷」と名前を呼ぶと必ず「栄口」と返ってくるのが妙に嬉しくて何度も何度も名前を呼んだ。世界がそこで完結していた。恐ろしいまでにパーフェクトだった。
酔っていたから、だけでは片付けられない。水谷とは高校の頃からの付き合いなのだ。二十九の今までずっとつるんでいるから、もしかしたら親友と呼べるのかもしれない。二人で一緒にバカやって、それこそ記憶が飛ぶまでアルコールが回ったこともあったけど、昨日みたいなことには決してならなかった。
セーブが利かなくなるまで飲めるくらい若かったなら、昨日のことは跡形もなく全て忘れていただろうか。まるで電車が一両ずつ目の前を過ぎるかのように記憶は切れ切れだ。断片的に繰り返されるのは水谷の指が、舌が、身体を這い、確かズボンは自分で脱いだこと。
(まずキスしてみて嫌じゃなかったっていうのは詐欺だよなぁ……)
対峙しているのは水谷とわかりきっているのに、深い瞳の色に煽られて仕方なかった。最初はほんの冗談のつもりで、区切りのいいところで笑い飛ばして収まるはずだった。お互いを試し試されるうち我慢比べになったのかもしれない。もうやめて欲しいと口にしたら水谷に屈してしまうような、微妙なプライドもあった。
もっと問題なのは「やめて欲しい」なんてこれっぽっちも思わなかったことだろう。
水谷が何度も軽く唇を付けてくるのを栄口はされるがままに受け止め、相手は友達、しかも男だったけれど変に気持ちが踊って足の指が騒いだ。近頃じゃめったになかった甘いような酸っぱいような気持ちが胸を満たし、小さく首かしげた水谷が「まだ平気?」と言う。ゆっくり頷くと水谷はまた目を閉じ、おずおずと舌を入れてきた。口の中で自分の体温と水谷の体温が溶けて混ざる感じが癖になりそうで、もっともっとと貪欲に舌を絡める。けれど頭の中は冷静に「水谷はこんなふうにキスするんだな」ということを考えていた。水谷がどんな顔をしているか気になって薄目を開けると、瞼のあたりがうっすらとキラキラして見え、やたら気持ち良さそうにしているのがわかった。オレとキスしてこんな顔なっちゃってバカだな水谷。栄口の中にじわじわと何かが湧き上がる。口の中でせわしない舌を捕らえ、軽く吸ってやると身体を震わせた水谷から鼻先から甘い声が抜けた。
(ずるい、反則……)
(水谷が下手なんじゃないの?)
安易な挑発にでもすぐ乗ってしまう相手だということを知っていた。これ以上水谷を焚き付けてオレはどうするつもりなんだろう。栄口の疑問をよそに仕返しのキスは深く、外側の形はそのままに、内側からどこも無様に溶けそうになる。指先も乱暴に絡め取られ、触れ合う指と指の節は痛いくらいなのに熱く、もどかしい。
(してもいい?……っていうか)
作品名:踊りませんか次の駅まで 作家名:さはら