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狭間で揺れる

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 暗い。
 単純にして説明はそれ一つで事足りる。漠然と浮かんだ感情はそれ以外に何もなく、さてどうしたものかと途方に暮れる。
 何しろ、周囲に何もない。ただ暗闇、しかも自分以外は何も見えないという光景ばかりが目の前に広がっている。しかしこれがただの闇ではないことは、自分の姿がはっきりと見えるあたりで分かる。光源もないくせに認識できるあたりが異常だ。
 さて、どうしたものか。
 再び頭を悩ませた時、くい、と弱弱しい力で服の裾が引っ張られた。

「こっちです」

 おや。呟いた声は音にならなかった。
 まったくもって姿は見えない。だが声だけは届く。くいくいと裾を引っ張る弱い力。まるで子どもが親にするような稚い仕草。それでもなぜかこの力を振り払う気は起きず、ただ引かれるままについていく。
 暗闇の中、声はしきりにこっちです、と呟いた。弱く引かれる服の裾、導かれるままに続く暗闇の中をただ歩く。
 どれほど歩いたか、声がここだ、と呟いた。聞かせるためでもない、ただ確認のために落とした言葉だろう。まったくもって自分には何も見えないが、この声の主には何かが見えるのだろうか。改めて法則が気になるが些細なことだと黙殺した。

「ここから、この道の上をまっすぐに歩いていってください」

 無茶を言う。自分は見えないのに。
 顔を顰めれば相手はそれもわかったのだろう。困惑した声であれ、もしかしてと問いかける。
「見えないんですか?」
「生憎。俺には暗闇が広がっているようにしか見えない」
 肩を竦めて嘆息すれば、傍らの気配も僅かに息を呑んだようだった。どうしよう、と途方に暮れた声で呟いた後、またもやくい、と裾を引かれる。今度はなぜか触れる白い手が見えておやと瞬く。
 引かれるままに少しだけ立ち位置を変える。そのまま一歩踏み出してください、と促す声に従うまま歩き出した瞬間、それまで何もなかった空間に白い一本の道が出来た。
 おやまあ、どんな原理。目を瞬くがそれも刹那。池袋で運び屋を営んでいるデュラハンなどを知っている身としてはこの程度の驚きはさして長引かない。これが彼の言った道だろうと振り返ろうとすれば、先ほどより硬い声で「振り返らないでください」と制止される。
 なぜだかその声に従う気になり、動きを止める。たたらを踏んだが道から外れることはなく、声の主は少し安堵した息をつき、先ほどよりも穏やかな口調で先を促す。
「この道を、ずっと行けば大丈夫です。行ってください。振り返らないで、先を見て。前だけを見て進んでください」
「……君は行かないの?」
「僕は、別ルートなんです」
 暗にここはいけないのだと告げる声に、ふぅん、と呟く。なんにせよここまで案内してくれたんだからご苦労なことだ。白い道は曲がりくねるわけでもなくただ平坦に一直線を示している。迷わないでくださいね、と告げる声に迷いようがないよと返して臨也は一歩を踏みしめた。
 間際にふと思う。振り返るなと言われたが、まだ声は届くだろう。ここまで連れてきてくれたのだ、礼くらい言ってもいいかもしれない。
 久しぶりに打算も悪意も含まない、純粋な思いを抱き、我ながら似合わないと苦笑しながらそれでもなぜか礼を告げる。
「――ああ、そうそう」
 声が驚くほどに穏やかなことに、自分でも内心驚きながら。それでも悪くないと思いながら。
「ありがとう、って言っておくよ」
 暗闇の中、指針などなかった。まあこれはこれでいいかと思っていた。だが声はここまで連れてきてくれた。道を示し、この上を歩けばいいという。人に従うのはなぜだが癪だが、まあこの声にはなぜだかいいかと思ってしまった。歩き出しながら手を振る。数歩の距離、声はまだ届くだろうと笑いながら。
「――いえ、」
 返答は、微かに。ともすれば風に消されそうなほど小さく。
「どう、いたしまして」
 笑いを含んだ声がまた逢いましょうと告げて、そうだね、と心中で返した返答が嘘のような温かさを持ったことに気づく。ああ、この声は好ましい。そうだ、また逢えるというのならこの子にはやさしくしてやってもいいかもしれない。この礼として。
 そんなことを考えながら、歩く。歩く。白く平坦な道の上、それでも途切れることなく暗闇の中続く道を。歩いて、歩いて、歩いた先で、折原臨也は声の相手も自分のこともなぜこんな場所にいるのかということも、初めて全てを思い出し、勢いよく背後を振り返る。
 瞬間、それまでの世界は消失した。



「……起きた?」

 聞き覚えのある声が目覚めた契機。視界に広がる白と病院特有の薬剤のにおい。感じる状況に臨也は仰向けに寝たまま、思考を働かせる。
「新羅、か」
「そう。まあ記憶はあるようだ。気分はどうだい、臨也? 生死の境を彷徨った感想は」
「……起きぬけの患者にかける言葉がそれかよ」
「自業自得の相手に配慮する必要は感じないね」
 はっと笑った闇医者に、こいつはどこまでいってもと思わなくもない。まあ、新羅にそんな配慮があってもなと思う時点で、臨也自身も歪んでいる。それでも治療はしてくれたらしい彼に一応の感謝はある。旧友は一応の情はあったらしい。
 痛みを感じるがゆっくりと体を起き上がらせる臨也に無理はしない方がいいよと言い置いて、新羅は連結された点滴の様子を見る。手慣れた仕草を何気なしに見つつ、忠告通りにベッドの背に寄り掛かった。痛む脇腹に刺されたんだっけかと思いながら、サイドテーブルに置かれた時計で時刻を把握、眉を顰めた。
「君が倒れてから丸二日ってとこかな。随分と派手にやったじゃないか」
「それはどうも。まあ、避けたつもりだったんだけど」
「うん、刺し所が良かったのか内臓は綺麗に避けられてた。臓器に損傷はないよ。ただ出血が派手だったからそれで死ぬところだったけど」
「そう。で、退院は出来るか?」
 返した言葉に新羅は苦笑して「君らしいね」と呟いた。
「経過を見るためにもう少しいてもらうことになるけど。必要なものは君の助手に頼めばいいよ」
「波江さんが持ってきてくれるかね……まあいいや」
 事務所はどうにかなっているだろう。必要な対応については彼女に知らせている。手筈通りなら、と頭の中でこれからに向けて思考を巡らせていると新羅は嘆息して踵を返した。
「臨也は大丈夫だろうし、私は行くよ。別の患者がいるしね」
「へぇ。お前が病院にまで来るのは珍しいな」
 新羅は普段自宅で手術を行う。闇医者という稼業か、病院との伝手は一応確保しているらしいが、愛しのデュラハンとの生活を優先している彼はめったに病院にまで出向かない。よほど重症な患者がいる場合を除いて、だが。
 揶揄すれば「それを君が言うのかい、臨也?」と笑って振り返る。
 白衣を翻して見返した新羅の目には珍しくも非難が浮かんでいる。
 確かに世話になった身で言える内容ではない。だがそれではない。この闇医者は珍しくも別の要因に苛立ちを見せている。
 冷静に観察する臨也を呆れたように、憐れむように一瞥し、新羅は告げた。

「帝人くん、君と違ってまだ意識が戻っていないんだ。君が軽佻浮薄、唯我独尊を貫くのは結構だけど、流石に自分を庇った相手を悪く言うのはどうかな」

「……は?」
作品名:狭間で揺れる 作家名:ひな