狭間で揺れる
「あとセルティもかなり怒っているからね。容体が安定したら覚悟しておいた方がいいよ臨也。これは友人としての忠告さ。俺も止める気はないからね」
言うだけ言ってパタンと閉まったドアを見たまま、臨也は茫然と呟く。新羅は、今、なんと言った?
誰が、誰を庇ったって?
思いがけない現実に真っ白になる。思考が結論を提示するが何故という疑問が支配する。
竜ヶ峰帝人。平凡を地で行くような高校生。ダラーズの創始者。臨也の駒。愛すべき人間であり王将。持てる限りの帝人の情報が頭を巡り、ようやくこの状況における記憶と経緯を再生し――臨也は、納得すると共に仰向けにベッドに倒れ込んだ。ずきりとわき腹が痛むが、むしろ痛みが脳を冴えわたらせる。事態を把握するのは早かった。
――そうだ。刺されたのか。
記憶を辿れば答えは容易に出る。二日前、池袋の路地で臨也は帝人と連れ立って歩いていた。単なる偶然、言うなれば気まぐれ。偶然来良の下校時刻に来訪が重なり、たまたま帝人に出会った。何気ない近況を話して、それで。あまりに帝人の食生活が酷いという話になって、何か食べさせてやろうという気になったのだった。……そこを、襲われた。
相手は、折原臨也に恨みを持っているようだった。臨也としてはそんなものは今更にしか思えない。自身の趣味が外道の類だということは客観的に認識している。変えようともしていない以上、自分に何らかの恨みを持つ輩はいるはずだと踏んでいる。
だが、相手は折原臨也。他でもない、最強と吹聴されている平和島静雄と喧嘩という範疇を逸脱したやり取りをする人間として池袋では名が知れている。
踏まえて臨也を襲う輩ならばまず正攻法などではこないだろう。だからこそ保身を怠らないし、策も回していたはずだった。
だが、現実はこうだ。
ヘマしたなあ、と自分でも思う。右腕を動かして顔を覆い、笑おうとしたが引きつった声しか出なかった。
不意の奇襲に次いで相手は数人で囲んだ。たった一人を狙うのにこれほど頭数を揃える辺りが相手の程度が知れる。そんな様を観察しながらあしらっていた。伊達に静雄と死闘を繰り広げているわけではない、素人の数人程度なら相手にできる。普段ならば適当に相手をし、切りのいいところで去る。それで済むはずだった。
僅かな油断をつかれた一撃。向かってきた相手をいなした直後だった。気づいた時にはすでに遅く、鈍く光を反射する刃が迫るのを冷静に見ていた。刺されるだろうがおそらく致命傷にはならないだろうと諦めた時だった。帝人が割って入ったのは。
止まらずに刃は帝人の体に食い込んだ。苦悶の声と表情、埋る刃と流れる血。加害者と被害者、どちらも等しく流れる赤に怯え、勢いづいた一部の人間が臨也を刺し、彼らは逃走した。脇腹を刺されたがあまり深くないと判断した臨也は携帯でセルティに連絡した。彼女ならば有無を言わさず新羅を動かすだろうと踏んで。
臨也だけならば動けないことは無かった。それでもその場に留まったのは倒れた少年の為だった。帝人は刺されたショックと痛みのせいか、気絶していた。
薄暗い路地裏、倒れた帝人、血の気の引いた顔。それらを冷静に観察しながら臨也もまた、流れる血を抑えて漆黒のライダーを待った。
そこまで振り返り、自嘲する。……なるほど、確かに臨也の失態だ。これは新羅の言葉に反論できない。
腕をベッドに落とし、ぼんやりと天井を見上げた。病院特有の白がいやでも目につき、思い出すことがある。
朧気な夢。そこに出てきた白い道。導いてくれた声は、あの子どもの声に似ていた。
「――そんな、夢を見たんだ」
言い聞かせるように説いた声は夜の帳に溶けゆく。返事の代わりに機械音が部屋に響いた。
照明が落とされた中、器具の灯りとわずかな間接照明が眠る少年の顔を照らしていた。点滴の落ちる音さえも聞こえてくるような静けさのなかで、臨也は眠る子どもの髪に手を伸ばす。さらさらとした髪質は指先を楽しませるが、それもすぐに止める。
帝人は、まだ目覚めない。
消灯もとっくに過ぎた病院の一室。臨也は自室を抜け出し、帝人の眠る病室に忍び込んでいた。
臨也が目覚めてから二日。帝人はまだ眠りについている。
あの時応急手当はしたものの、失血が多かったらしい。感染症などの危険は今のところないが、普段の栄養不足が祟っていたらしく回復は思わしくない。新羅の言に呆れながらも臨也は帝人の病室を訪れている。
闇の中でも映える夜着。入院着に包まれて眠る帝人はまさしく病人だった。
薄く上下する胸にらしくもなく安堵する。髪を梳けば無意識だろうが心地よさそうに頬が緩む。それでもまだ目覚めない。
身体的には何ら問題ないのだと新羅は言った。なぜ目覚めないのかわからないと彼は臨也に告げた。医学的に、科学的にもなんら問題はない。しかし帝人は起きない。新羅が匙を投げたこの件、言わなかったが心当たりが一つある。
「……ねえ、なんで君は俺に道を譲ったの」
答えは当然返らない。撫でる指に反応するくせに起きない子どもに臨也は苦笑する。
オカルトと笑えばいい。妄想だと蔑むならば嘲え。しかし現実にデュラハンという妖精が存在するように、あれらの光景もまた何らかの要素を持っていないとどうして言える?
夢は記憶と情報の整理だと誰かが言った。だがそれだけで説明できないものを抱えているのもまた事実。科学と医学でも夢と言う事象を完全に説明できない。
臨也は神を信じない。だがオカルトを頭から否定する気もない。
自らの直感が告げていた。あの声は。そしてあの白い道は。
「君が、歩くべきだった道だろう?」
死にかけた人間が言う臨死体験。出会った人間は誰もが似たようなことを言う。橋を渡って帰ってきた。昔死んだ人が帰れと教えてくれた。川を渡る前に引き返せと言われた。医学では脳内麻薬がどうとか言われているが、自らも体験したあの事象を頭ごなしに片付ける気は臨也にない。
白い道。辿るべき道しるべ。そして新羅は死にかけたといった。ならば答えは簡単だ。
帝人は、自分に残されていた帰り道を臨也に譲ったのだ。
声をかけられるまで臨也は暗闇しか見えなかった。しかし示されてから広がった道は白く、戻るべき先を指示してくれた。最後に振り返った時、あの道は消滅した。ならば帝人は今もあの暗闇を彷徨っているのだろうか。
「ねえ、帝人くん」
ぎしり、と音が鳴る。遠慮なく病人のベッドに乗る臨也になにも応えは返らない。だがそれを承知で臨也は寝台に座り、眠り続ける帝人の顔を覗き込む。
「なんで君は俺をあそこに導いたのさ?」
昏々と眠り続ける帝人が返答をするはずもない。分かり切っていたがそれでも臨也は問いかけずにはいられない。柄にもなくこんなことまでしている時点で、自らの内にある帝人への感情に気づかされる。
「なんで俺を――助けたりしたんだい?」
手を添える。夜の空気にあてられた体からは熱が奪われ、指先は冷たく冷えていた。眠る帝人の頬の方がまだ温かいと感じるくらいに。
僅かに震える瞼に落胆と安堵を抱きながら、臨也は想う。なぜ、この子どもは庇ったりしたのだろう?