覚悟のススメ
益州の州都である成都は、内陸の土地に相応しくからっと乾いた空気に全体が包まれていて、長江の息吹に満ちたしっとりした気候に慣れている俺には、それが少しばかり鬱陶しい。
「ご依頼の品なら出来上がってますよ。今、孔明が用意しておりますので、少々お待ち頂きたい。……しかし、一応ご依頼通りには作りましたが、本当にあんなものがあの子の役に立つのですかね?名門孫家の方々に、俺などの名前がそこまで影響力を持つものか、正直少々疑問なのですが」
「お前、今の自分の知名度舐めてんだろ。つか別に影響力なんかなくてもいいんだよ。大事なのは、いざってときの外堀を埋めておくことだからな……しっかし、こんなこと頼んでおいてなんだが、俺との話がなかったらお前、アイツの事はどうするつもりだったんだ?」
「さて。どう、とはどのような意味でしょう?」
「お前なぁ……それぐらい察しろよ」
何しろ大気に水気が足りない。いがらっぽく乾燥を訴える喉を、唾を飲み込むことで宥めながら俺が悪態をつくと、部屋の南に切られた窓際に立って空模様を眺めていた玄徳は、くっくと喉を鳴らして低く笑った。
妹夫ではあるが、俺なんかより遥かに年上の奴にそうされるとなんだか本気でバカにされてるような気がするもんだ。つーか、コイツがすると特に。
「何がおかしい」
「いえ……どうも何も、俺にはあの子をどうこうする権利などありませんから」
なので、出された茶をがぶりと飲みながら一言、ことさら機嫌の悪い声を作って言ってやると、よりによって「あの子」なんて親しげな言葉で人の婚約者を呼んでくれやがった玄徳は、やっとからかうような笑みを納めて……それでもどこか微笑ましいものを眺めるような視線で見られているのは変わらなかったが、とにかく俺の向かいの席に腰かけた。
「ただ、仲謀殿とのお話がなかったら、彼女の将来も考えて何れ俺が彼女に相応しい相手を見つけてやるつもりではありました。そのお相手が仲謀殿なら、俺も安心です」
「ハッ、よりによって父親気取りかよ。そう言うのは普通、師匠の役目なんじゃねえのか」
尤も、この男の大人びたところが妙に親父臭いのは、初めて顔を合わせた頃からまったく変わっちゃいないのだが。それでも「お前が親父ぶる必要なんてねえだろ」なんて俺が面白くもなく机に肘をつけば、次の瞬間玄徳の物ではない、妙に間延びした声がそれに応える。
「いやー、生憎ボクは父親って柄じゃありませんので。玄徳様が代って頂けるならお任せしたいところですね」
「ぃぎゃっ!?」
「孔明」
異様に近い耳元で聞こえた。台詞と生温かい息が首筋にかかると同時、思わずびくっと首を縮めて振り返れば、あいつの――……花、の師匠でもある玄徳の参謀が、何時の間にやら本当に俺のすぐ背後に立っていたので、俺はもう本気で死ぬかと思う程驚いた。
常にのらりくらりとしていて気配を掴みにくい野郎に、音もなく背後を取られるってのは正直心臓に悪い。こんなことをされるのなら、妹夫への信頼を示す礼節として、わざわざ控室に護衛の兵士を置いて来るのではなかった、と俺は横目に参謀を睨みあげたのだが、しかしそいつは俺の視線になど毛程の興味もないようで、抱えていた書簡と箱を静かに机に置くと、仕草だけは丁寧に礼をして見せる。
「大変お待たせいたしました。これがお約束の書簡です。それにしても、こんな簡一本の為にわざわざ仲謀様御自らお出で頂かなくても、此方からお届けすることだって出来ましたのに。益州に何か御用事でもあったんですか?」
「いや、特にねえ。ただ、可愛い妹が嫁いでもう大分たつからな。あの箱入りがド田舎で苦労してんじゃねえかと思って、様子を見に来てやったんだよ。それに花も尚香に会いたがってたし、ついでだ、ついで……そういや今、花と尚香はどうしてるんだ?」
とは言え、約束の物を持って来てくれたのだから文句は言うまい。「ご確認ください」と掌で促されて書簡を手にとりながら聞くと、玄徳と参謀は揃って顔を見合わせた後で首を傾げた。
「いつもなら奥方様は今頃訓練場にいらっしゃる時間ですが、今日はまだ悲鳴が聞こえてきませんので、おそらくうちの弟子と一緒にお部屋にいらっしゃるのではないかと……流石の奥方様も、あの子相手に武芸の稽古は出来ませんでしょう」
「成程、今日は花が尚香殿の相手をしてくれているのか。道理でやけに静かだと思ってたんだ。いつもなら今頃怪我人が出たの出ないのと偉い騒ぎだからなぁ」
妹よ、お前マジでどうしてこうなった。つか仮にも一州の牧を勤める男の奥方が、悲鳴でその居どころを判断されるっつーのはこれ、明らかにおかしいだろう。
「というわけで、尚香殿も花も恐らく無事かと思われますが、気になるようでしたら尚香殿の部屋まで案内させましょうか?尚香殿も此度の内兄の益州訪問を楽しみに待っておりましたので」
「……あ、ああ、頼むぜ。ありがとよ」
まったく、表立って止める人間が居なくなった途端に箍を外しやがって、ほんとにあのバカ妹は仕方がない。
玄徳の穏やかな申し出に、この機会に尚香にはキツく言い聞かせねば、と決意した俺が引きつりそうになる頬を励まして笑えば、玄徳はにこやかに「どういたしまして」と笑った。
これが嫌味じゃないというのが、この玄徳という男の恐ろしいところだ。尤も、花に言わせると玄徳のこの大らかさは奴に欠かせない美点であり、「玄徳さんの一番すごいところ」らしいのだが。
まあ、でないとこんな頼み事を、二つ返事で快諾なんぞ出来ないか。玄徳の命に一礼した参謀が、誰かに案内を頼みにいく声を背中で聞きながら、手にしたきりの書簡に視線を落としてため息をつく。
こんなもんを手に入れるためだけに一体どれだけの時間をかけたのか、数えたくもないがまったく、時の経つのは早いもんである。
あの日……すったもんだの末に俺様の妹である尚香が、今はこの益州牧を勤める玄徳の元に嫁ぎ、花が俺様の婚約者としてこの世界に残ってから今日まで、世間様ではすでに半年の月日が過ぎていた。
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玄徳から「ご依頼の品の用意が出来ました」との報告を受け、急遽決まったこの益州行に花をつれてきたのは、ひとえに最近の我が婚約者殿の様子が妙にしおれているように見えるためだった。
なんだかんだのしがらみの所為で停滞気味な婚儀の準備やら仕事やらに忙しく、最近あまり構ってやれなかった所為かと思えばどうもそうではなかったようで、悩みがあるなら話してみろよとそれとなく水を向けてやってもはぐらかされるばかりの俺様に、「きっと仲謀みたいな暴君には解らない悩みなんだよ」「尚香ちゃんもお嫁に行って、身近に乙女の悩みを相談できるようなひともいなくなっちゃったみたいだしね。たまには顔でも見につれていってあげたら?」とのたまったのは、例のごとく「退屈だから」という嫌な理由で仕事の邪魔をしにきた大小だ。