覚悟のススメ
「て、手続きって、あのさ、そんな簡単に出来るものなの?っていうか玄徳さんとか子敬さんとかは、それでいいって言ってくれてるの?」
「当たり前だ。でなきゃこんな話、そもそも進められるわけがないだろうが」
こいつを俺の嫁にするために必要な手段なら、どんな面倒ごとだろうといくら金を使うことになろうと、ためらうつもりはない。
苦労の末に手に入れた書簡を懐から取り出して、それでぽんぽんと軽く額を小突いてやれば、花は呆然と瞬きをしてからやっぱりぽかんとした顔で俺を見上げた。
「え、でも、だって、玄徳さんにまでそんな、迷惑かけるつもりじゃ……私は別に」
「妾でも構わないのにってか?アホかお前は。言っただろうが、それじゃ俺様がイヤなんだよ」
正直こいつの言うとおり、妾にするだけなら話は簡単だった。
けど、それで傷つくのは俺じゃない。こいつだ。所詮は妾だ日陰ものだと、後ろ指をさされて肩身の狭い思いをするのはこいつなのだ。
尤もこいつはバカなので、俺のそばに居られるだけで良いなんてかわいいことを言って、それで済むのかもしれない。陰口さえ甘んじて受け止めて、それで良いと笑うのかもしれない。
だが、あまりにばかげてるだろう、そんなことは。ここではないどこかでも、確かに生きていた世界にあった家族だとか友人だとか言う暖かなものを、そういう大事な繋がりを俺のために全部捨ててここに残ってくれたこいつが、そんなくだらないことの所為で幸せになれないなんて、むしろあってはならないことだろう。
「お前は俺が選んだ女だ。一生俺の隣を歩かせると決めてんだ。そんなお前にケチなんか、俺が絶対誰にもつけさせねえから、だからお前は何にも心配せずに、黙ってさっさと俺の妻になれ。全部はそれからだ」
だから俺は決めたのだ。それがどんなにめんどくさいことでも、大変なことでも、こいつがまっとうに笑って暮らせる将来につながるなら、正々堂々俺の隣を歩いていける未来につながるなら、どんなことでもしようと決めたのだ。
そうしてあの日、こいつが俺の側に残ると決めた瞬間の決意そのままに俺が言ってやると、ぽかんとしていた花の表情が不意にくしゃりと泣きそうに歪んだ。
「――……仲謀」
「なんだ」
「ほんとに私で良いの?」
俯く。次いで少し掠れた声がそんなことを聞けば、俺だって覚悟を改めざるを得ない。
「……お前が良い」
腹の底に力を込めて、真剣に答えればそれでも声が少し震えた。次いで伸ばした腕で背中を抱き寄せると、俯いたきりのあいつの額が俺の肩に触れる。
「お前が良い。お前じゃなきゃ、俺はきっとダメだ」
抱きしめる腕に力を込めれば、そのまま肩口に頬が寄せられた。そうしておずおずと俺の背中に回される腕の感触を、耳元を揺らす涙混じりの吐息を感じれば、なんだかもういとおしすぎてどうしようもなくなった。
「同じ事を何度も言わせんなこのバカが。解ったらさっさと早く嫁に来い。何が何でも幸せにしてやる」
「……うん、解った」
少し体を離して間近に顔をのぞき込み、俺が笑えば花も笑う。
そうしてやっぱり少し涙混じりのその微笑みに文字通り胸を突かれ、勢いのまま口付けてしまおうか、と俺があいつの顎に指先をかけた、次の瞬間のことだ。
「玄徳様!こっち!此方です、お願いですから早く!ああ、どうしましょうまさか兄上と花殿が」
「わっ!たったっ、ちょ、待て尚香、そんなに引っ張ると袖が」
「袖ぐらい、後でいくらでも私が繕って差し上げます!ですから、お願いですから早く来てください!!ああ、兄上、花殿!!どうか喧嘩などやめ――……」
慌てた声と急ぎ足の主たちが、騒がしいと思う間もなくやってきて、訪いもなく部屋の扉をガラリと開けた。
はっと気がついたときにはすでに遅く、扉を開けた人物――……尚香と玄徳は、今まさに唇を触れ合わせる直前だった俺と花を見て、瞬時にすべての動きを止める。
「あっ」
「お」
もちろん、すべての動きを止めたのは俺たちも同じだったわけでつーか、なんだこれは、こんなんありなのか。
あまりのことに本気で頭が真っ白になり、口付け寸前の体勢のまま体が固まってしまって動けないで居る間に、流石に年の功か一瞬早く我に返ったらしい玄徳が、ささっと丸く見開かれたままの尚香の目を覆って目隠しをした。
「えっ、あれ、玄徳様!?」
「うん、大丈夫だ尚香。俺たちはきっとお邪魔だ。いや、これは失礼いたしました。どうぞ遠慮なく続きを」
「で、出来るかバカヤローーーーーッ!!!おま、ちょ、玄徳!!なんでこう言う時だけそんな無駄に空気読むんだよこの野郎、却って居た堪れねえだろうが!!」
そのままさわやかな訳知り顔の微笑みで扉を閉められたところで、続きなんざ出来るわけがねえ。
俺は俺で顔が耳まで熱いし、花は花で恥ずかしさで首まで真っ赤にしながら頭を抱えて床に蹲っちまってるし、まったく空気を読むなら扉を開ける前にしろってんだあの馬鹿夫婦が。
「ったく……まぁ、その、なんだ。続きは後でだな」
「え、あ、うん、あとでね、あとで……って、後で!?」
「だーもう、うるせえ!そこに文句つけんな!!こんな生殺し状態で終わってたまるか!」
「な、生殺しって……」
すっかり気が削がれてしまった以上もうどうしようもなく、蹲っている花に手を貸して立ち上がらせる。やるせない溜息をつきながら俺が言うと、花は上の空な様子で頷き返してからぎょっとしたように俺を見上げた。
喚き返せば、きょとんとした顔になってからそれでも「しょうがないなぁ」なんて呟いてあいつが俺の大好きな顔で笑ったもので。
ああ、畜生、何だかんだで幸せだ。結局俺も笑って、力いっぱい花のその細ッこい体を抱きしめるだけで今は良しとしたのだった。
■■■
「ねえ、仲謀」
「んだよ」
「さっきの話さ。平たく言えば、私が子敬さんちの子供になるってことなんだよね?」
「ああ、まぁな」
「てことはさ、私、もしかして子敬さんのこと、お父さんって呼ばなきゃいけなくなったりする?」
「……は?ちょっと待て、なんで子敬がお父さんなんだ?」
「え、だって子敬さんちの子供になるって、そういうことでしょ?」
「はぁ!?……あー、なんか勘違いっつーか、分かった。うん、分かった。まあ意味合いとしてはそれに近いが、お前は別に子敬の娘になるわけじゃない」
「そうなの?」
「ああ。だからまぁ、呼ぶなら父上よりも兄上ってとこじゃねえかな。あいつの年的にもそんなんだろ」
「えー、兄上って、子敬さんには悪いけど、なんかぜんぜんそんな感じじゃないよ。まだお父さんの方がしっくりくるっていうか」
「お父さんお父さんって……お前なぁ、あいつが幾つだか知ってんのか?」
「子敬さんの歳?うーんと、よくわかんないけど、四十歳ぐらいかなぁ」
「四十!?おま、そりゃいくら何でも子敬が気の毒だぞ!?」
「気の毒って言われても、そう見えるんだもん。仕方ないじゃない」
「仕方ないって、あのなぁ。子敬は確かに老けて見えるかもしれないが、まだそんな歳じゃねえ」
「そ、そうなの?え、じゃあ今いったい何歳なんだろ」
「えーと、子敬は確か公瑾の一つ下だから、今年で二十六……」