覚悟のススメ
「身分の差とか家柄とか、ほんとはいまでもよくわかんないよ!でもどれだけ考えたって、私が仲謀のお嫁さんになって、『孫家の当主』の特になる事なんか何にもないのは事実なんだもの!だから、別にお嫁さんじゃなくても良いかなって、仲謀の傍に居られるなら別になんでもいいやって、そう思うことにしようってやっと決めたのに!」
「お前……」
最近妙にしおれていた原因はそれか。
睨む目に涙まで溜めて怒鳴った花に、思わず拍子抜けした俺はがっくり脱力してしまった。
成程、こいつは親戚連中の嫌味に負けたりはしない。負けたりはしないが、しかしこういう方向で争いを避けようとする可能性はあったわけで、言われてみりゃあ「戦はよくないよ」なーんて常々真顔で口にしているこいつが、何れはこういう考えに至るだろうことに、何故俺様は気がつかなかったのだろうか。
まあ、俺はこいつを嫁にすることしか考えてなかったので、まさか妾でいいと思われてたなんて解らないのが当然なんだが。
「ほんとは仲謀のお嫁さんになりたいよ。すごくなりたいけど……でも私は、私の所為で仲謀が困ったり、誰かに侮られたりするのは我慢できない」
零れ落ちたら負けだとでも言うように、ぐしぐしと袖で目じりに溜まっている涙をぬぐいながら、「私の好きな人が、私の所為で馬鹿にされるのは嫌だよ」なんて言う。
嫁になりたいならなればいい。実際俺はそうするつもりなんだから、遠慮なんかするこたぁないとは思うのだが、しかし。
「あー……解った。解った、うん、もういい。怒鳴って悪かった。解ったから泣くな」
「な、泣いてなんかないよ!」
「泣いてんだろうが。あーあーほら、そんな乱暴に擦るから、目元が真っ赤だぞお前」
これは、多分そういう俺の気持ちだけでは解決できない事なのだろう。
まったく、誰かと共に人生を歩む、ということは難しい。溜息をついた俺が花の頭をぐしゃっと撫でやったついで、擦り過ぎて赤くなってしまった目元を指先で拭ってやると、花はむっつりとした表情のまま、上目遣いに俺を見た。
普段さんざっぱら俺より年上だってことを自慢してくる奴が、そうしてるとまるで年上に見えねえぐらい可愛いから困る。
「あーあーもう、お前はほんとに……そんな泣くほど悩んでるくらいなら、さっさと俺様に相談しろよ、そういうことは」
「相談しろったって、仲謀ほんとに忙しそうだったし……それにこっちだと奥さん何人も貰うのって普通だって話だから、それならそういうのもありなのかなぁって、考えてたらそっちのほうがいいかもって……なんか思えてきちゃって」
「一人で煮詰まるから、ンーな風に変な方向に考えがすっ飛ぶんだよ、ったく……あのな。良い機会だから言っておくが、俺は他の誰が何と言おうと、お前以外の女に孫家の後継を産ませる気はねえぞ」
「……はい?」
苦笑いをして、花の頬に両手を添えて上向かせる。まっすぐその目を覗きこみながら俺が言うと、花はきょとんとした顔になった。
「聞こえなかったのか。お前以外の女を娶る気はねえってことだ。例え嫁を取ることで戦を回避できる場面があったとしてもな」
「え、でもそれって」
もう一度言えば、こんどは困惑したような顔になる。そりゃそうだ。跡取りになり得るガキが何人居ても足りないような今の時代、妻は一人で良いなんていう良家の当主なんざ、どこを探したっていやしないし、そんなことを言う奴が居たらそれこそ御家の大問題である。
だけれど、俺はもう決めた。
決めたのだ。
「いいか、お前は今日から玄徳の遠縁の娘だ」
「へ?え、玄徳さんの娘って」
「今は黙って聞け!」
「ふぎゃ!?」
俺の言葉に首を傾げ、何か言いかけたあいつの鼻先をぐいと指先で摘む。
呼吸の問題もあるから、もちろんすぐに離したが、それでもあいつの反撃を封じるにはそれだけで十分だった。
「お前は戦乱で家族を失い、玄徳を頼って新野に向かっていた途中で孔明にその才を見出され、奴に師事した。その後孔明の推挙あって玄徳に仕官し、揚州に孫家との同盟の使者としてやってきた折りに孫家の忠臣、子敬に才を認められ、養子に望まれて魯家に入ったところ俺様の目に止まり、見初められてめでたく俺様の嫁になるってわけだ。どうだよ、中々立派な筋書きだろ」
「え、え?そ、れって誰の話?」
「だからお前の話だって言ってんだろうが」
不満そうに睨んでくるのを、こっちも睨むことで黙らせてから続ければ、あいつはますますきょとんとした顔になった。
本決まりになるまでは、とこいつには今まで何も言ってなかったわけだが、それにしたって少しは察してほしいものがある。
まあ、こいつが肝心なところで鈍いのは、きっともう一生変わらねんだろうけども。儚い希望をさっさと諦めた俺は、がしがしと後ろ頭をかいてため息をついた。
「子敬は奮武校尉も勤める。今孫家に仕える家臣の中でも一番の位と力を持つ魯家の人間だ。魯家の出なら、たとえ養子と言えど孫家の名とも立派に釣り合う。魯家の養子に入る前の素姓を詮索されても、益州牧を勤め、今や孫家とも姻戚関係にある玄徳の遠縁なら問題はない。孫家の嫁に相応しい女だと、お前の事を誰もが認める」
とどめのつもりで言ってやると、花はやっと合点がいったようにはっとした表情で目を見開いた。
きらきらと涙に濡れた視線が、それでもまっすぐに俺を見れば、俺だってなんだかもう笑うしかない。
「やっと理解したか?ったく、家柄なんてなぁ。ンなもん作ろうと思えばこんな風にいくらだって作れんだよ。言っただろ、お前が気にすることじゃねえって。大体、一体何の為に俺様が忙殺されてると思ってたんだ、お前は」
「え、まさかその話で最近ずっと忙しくしてたの?」
「ったりめーだ。婚儀の準備と並行作業で色々根回ししなきゃなんなかったから、めちゃくちゃ大変だったんだぞ」
孫家に相応の家格を持たない、どこの出自かもはっきりしない花を俺様の嫁に据えるためには乗り越えねばならない壁などいくつもあるが、中でも最大の壁が「花の身分を作ること」だった。
何しろこいつはこの国の人間じゃないだけならまだしも、この世界の人間ですらないのだ。身分一つ作るにしたって、最初は子敬の家名でも借りれば済むだろうと思っていたのが、それを内々に告知した途端に面倒な親戚からこぞって「子敬殿のお身内になられる以前の経歴が疑問だ」と、逆に深いところを根ほり葉ほり詮索される始末である。
最終的には一番最初にこいつを拾ったという玄徳の手まで借りねばならなくなってしまったのは、だからある意味誤算といえた。花を己の身内と偽ることを玄徳自身が快諾したとは言え、事はそれだけで済む話ではない。あちこちにつながりをつけて話し合い、時には決して少なくはない額の金を使って、戸籍を司るいけすかない地方役人共の慰撫に勤めなきゃならないときだってあったのだから、まったく面倒な作業だった。
けど、それでも。
「今日、玄徳からお前の身元を保証する書簡を預かった。それを子敬に渡して、早急にお前を魯家の養子にする手続きをとる。それが終わればすぐ婚儀だからな。お前も腹くくっとけ」