溢れたジュース
敬愛する師でもあった元雇用主の事件判決から数日。
俺は現在の勤務先である成歩堂なんでも事務所のソファーで、テレビを見ながらお茶を啜っていた。
新入社員の分際で、昼間っから良い御身分だとは自分でも思ったが、仕事ない以上は仕方ない。暇なのだ。
ここの所長でもある、若き天才マジシャンは学校だ営業だと毎日忙しそうにしているが、俺の分野はまず依頼があって初めて成り立つ。
依頼がないのだからすることがない、というのは道理であった。
最初は戸惑っていたこの雇用形態にも今では随分慣れてきた。
もともとは法律事務所だったなごりで資料も豊富だ。
空いた時間を活用して勉強に励んだりと、馴染んでしまえばなかなか快適な職場環境だった。
ふと思いついて、現雇用主でもある少女の父に向かって質問してみた。
「なんで、弁護士になったんですか?」
「なんだい、藪からに?」
「すみません。前から聞きたかったんです。」
そう。この俺の目の前でだらしなくもソファーにもたれ掛かり、好物のグレープジュースを飲んでるこの男。
成歩堂龍一は伝説の人だった。
弁護士を目指すものの辞書には成歩堂龍一の項目は必須である。
逆転必勝。無敗の弁護士。
毎度毎度の絶望的ともいえる状況をひっくり返す、不屈の闘志を持つ男の名とその手腕は伝説と謳われ、不死鳥とさえ称された。
7年前のあの事件がなければきっと、今もこの人は法廷に立っていて、多くの人を救うべく弁を奮っていただろう。
俺なんかがこうして会話するのでさえおこがましい。それほどの知名度と実力をもった雲の上の存在。
(…たまに忘れてしまいそうになるけれど。)
そして、俺はそんな『成歩堂龍一』に憧れているファンの一人なわけでもある。
経歴からしてそもそも特異な成歩堂は、手がける事件も複雑怪奇なものが多く。その辣腕は知られていても成歩堂本人の人格まではあまり知られていない。
疑問に思うのはファン当然の成り行きともいえるし、また、弁護士の卵としてもなにか『拾える』かもしれないと思ってのことだった。
「成歩堂さんって、芸術学部出身で、しかもストレート合格なんですよね?」
「へえ、良く知ってるね」
「有名ですから」
事実、弁護士を目指すものでは常識だった。
国内最難解と名高い司法試験をパスするのは並々ならぬ努力が必要だ。
法曹職を志す大半が何年も勉強して何回も挑戦し、やっとその資格を得る。とても趣味や道楽で取れるようなものではない。
だからこそ、あの、成歩堂が芸術学部だったと知った時には仰天し、疑問に思ったのだ。
なぜ、弁護士をめざしたのだろうか、と。
ジュース瓶に貼られたラベルの成分表を眺めている、孤高なる伝説の弁護士は質問する俺に眼もくれずに呟いた。
「ひとつ、懐かしい話でもしようか」
男は言う。恥ずかしいから、みぬきには内緒にしてね。
笑った男のその顔は、いつもと同じ表情なのに、でもどこか違って陰を落としていて。
不覚にも、その表情に俺は見とれてしまった。