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溢れたジュース

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******************


「…ちょっと、買出しにいってきます」
「いってらっしゃい」


手を振り、どこか悄然としたその背中を見送る。
真面目で正直者の少年は、何かに裏切られた傷ついた顔をして、去っていった。

(あーあ。ちょっとまずかったかなあ)

テーブルの上には彼が置いていった飲みかけのお茶が入った湯呑みがあった。
片す事もなく放置されたそれは余裕のない証拠だろう。
可哀想になあ、と他人事のように思う。こんな男に幻想を抱いてしまうなんて難儀なことだ。

自分は己というものを正しく認識している。酷く利己的で、傲慢で、慾深だ。その上懐疑主義でもある。
いつだって自分の欲を優先してきたのだ。ぼくは、自分は自分だけに優しい人間だと知っていた。

諦めない。手放さない。


自分から大事な物を守る為に、その邪魔となるものは排除する。
時には、真実だって利用して。


「泣かせちゃったかなー」

ま、いっか。呟いて、もたれていた肘掛に頭を乗せる。現実はいつだって期待を裏切るものだ。
その覚悟なくして理想を語るようでは他者を守ることなど出来ない。弁護士という職に就いた以上は人に裏切られることは必然なのだ。


手に持った瓶を傾け、一口飲んで唇を湿らす。

ちゃぷん、と小さく音を立てたそれを、丸く開いた穴を片目で覗き見る。青年に言ってついでに買って来て貰えばよかったかもしれない。
葡萄味のジュースの入った瓶を湯呑みの隣に並べて置く。コルクで栓しようとしたが見つからないので、口は開いたままだ。溢さないように気をつけなくては。
ティーバックの緑茶と気化したグレープジュース。中途半端なその水を混ぜたらどんな味になるのかな。色はやっぱり濁っちゃうかな。

んー、と腕を伸ばし、ソファに横になる。

頑張ってね。と青年に心の中で謝った。君はもっと上を目指さなきゃ。君の目指す伝説の弁護士みたいに、途中で潰れてしまわないように。
うんと甘やかして、ほんの少し突き放して、徐々に慣れていって貰おう。









「この怠けモノが」

平日の昼間っからなにをグータラしとるんだ。
聞き覚えのある声に閉じた瞼を開くと、仏頂面な幼馴染はその眉を吊り上げていた。

「……警察のお偉いさんって、結構ヒマなの?」

まあ怠け者っていうのは否定しないけれど、と置いて頭上の客人をみやる。

(相変わらずデフォルトで怖い顔をしてるなあ。)

眉間によった皺が勿体ない。折角綺麗な造りをしているのに、痕がついたらどうするんだと思って手を伸ばした。

「……何の真似だ」
「ん?さみしがり屋を構ってあげてるだけだけど?」

へらっと笑って、眉間に押し付けている人さし指をさらに強く押す。
あ、困ってる。眉間の皺がさらに深くなったのが感触でわかった。

「成歩堂」
「うん」
「先手を打つのは卑怯だ。」
「うん」

ごめんね、と元弁護士は無責任に笑う。こんな男に捕まって、お前も可哀想にね。

ますます寄せられた眉と、への字に曲がった唇。顔には不機嫌だとはっきり書いてある。
抑えた指を握られ、何をするのかと思えば人差し指をなぞるように口づけ、そっと歯を立てられた。

「…なにするの。商売道具に。」
「ふん。ピアノの弾けないピアニストに指なんて必要あるのか?」
「ピアノだけじゃないもの。僕の仕事は」
「負ける事のない、イカサマ賭博でも一緒だろう」
「違うよ」
「何が違うと言うのだ」

駄目だよ、と薄い唇から指を抜き取り、彼の唾液の着いた箇所をぺろりと舐める。

「子供達を抱きしめた時に怪我してたら変に思われるでしょ」
「む…」
「僕の仕事はあの子達を甘やかすことなんだから」
「それは、あの青年もか?」
「うん?もちろん。僕の大事な家族だよ」
「むむ…」

傍目には甘やかされているのは僕の方にみえるのだろう。それでもいい。僕は家族を愛してるので誰に何を言われても平気だ。
彼女達を守るためにならあの子達自身にすら憎まれてもいい、と思う。勝手に僕が僕に課したルール。
難しい顔をして考え込んだ御剣にどうしたの、と声をかける。

「納得いかない…」
「何がだい?」
「これでは子供相手に嫉妬している余裕のないバカな男のようだ」
「へえ。天下の御剣検事様が妬いてくれてるの?」
「……あの青年は少し、昔のお前に似ている。どこまでも真っ直ぐで、人を惹きつける所が。それにもし絆されてしまったらと思うと…恐くて仕方ないのだ」


認めたくはないが、と目をそらす男の顔を両手で挟み、ちゅっと音を立てて鼻にキスを落とした。
うん。確かに馬鹿だなあ。不用意にそんなこと言っちゃうから、何時までもたっても僕はお前を諦めきれないのに。

「いいんじゃない。僕はあの子達を愛しているけれど、お前には恋しちゃってるんだから」

「相変わらず、口の上手い奴め」
「そりゃ元弁護士だからな」




今も昔もずっと。
欲しいものを手元に置いておきたくて必死なだけだよ。


「その中には、当然私も入っているのだろうな?」
「…昔からずっと、欲しくて欲しくて堪らない。だから早く、お前をくれよ」


欲しいのはお互い様だと顔を赤くして唸る彼に、笑いが堪えきれない。擽ぐったい感触に身を捩り、歯形のついたそれでテーブルを指さして言った。


グレープジュースをこぼさないように気をつけて。



作品名:溢れたジュース 作家名:tep222