潮目にて
きれい、な。その振袖姿の子はそう呟いた。
きれい、と呟いた、そのあとの語尾をどうしようか迷ったのが見て取れた。
松寿丸が船に乗ったのは、これが四度目のことだった。
ただ、船で島まで渡ったのはこれが初めてだ。
なんという島だと兄が言ったか、もはや忘れてしまったが、島人が少し住んでいるだけの小島だ。
瀬戸海にはそんな小さな島がいくつもある。
兄は明日の茶の湯で、この島に湧く水をどうしても用いたいのだと言った。
この島の、山に湧く清水がそれは他のものよりも美味なのだと聞いたので。
お前もおいでと声をかけられ、嬉しくて一緒に船に乗ったのだが、山を見て、松寿丸を見遣って、兄は困ったように笑った。
道は急な獣道しかなく、松寿丸は草履の足だった。これでは山は登れまい。
兄はといえば地の者に革足袋を進呈されており問題なかったが、生憎と童のための小さな足袋は無かった。
すまないが海で遊んでおいで、此処は人も多くないから心配ないけれど、もしも怖い人がいたら逃げるんだよ?
そう言い置いて兄は山に入っていった。
松寿丸は一人、海へ向かった。
浜辺は白かった。砂の浜も小石の浜も見慣れたものだが、日輪の下の砂浜はひどく白く、怖いくらいだった。
島を一周すれば、兄が降りてくる刻とちょうどだろうと思い、歩き続けたが、単調な景色はつまらなかった。
と、その白いばかりの砂浜に、赤い色があった。
赤い着物を着た子供が、寝転がっていた。
赤い着物は高価なもので、けして寝転がって汚してもいいようなものではない。
まして、こんな小さな痩せた島にそうそうあるものではないはずだ。
妖しの類か、と疑念が湧く。
日輪の下で、疲れ果ててしまった妖怪だろうか、と。
疲れ果てたなら妖ならば怖いものではないのだから、と好奇心を押さえきれずにただ近寄る。
近づけば近づくほど、その姿は不可思議だった。
赤い着物には青と翠の花柄が散っている。
萌黄の色の帯は細かったが綺麗に織られた一品だ。縁に紫の刺繍の縫い取りまであり、手の込んでいるものだと知れる。
振袖を綺麗に皺なく広げた砂の上、寝転んでいる子供は髪が白かった。
その白いきらきら波しぶきを集めたような髪の半分が、赤い縮緬で覆われている。それで片目が隠れている。
その縮緬さえ、絞った星の細かさが砂を撒いたようで、緻密な仕事に一級品のものなのだと言葉も無しに伝えてくる。
人だとしたら、こんなところで寝転がって叱られないのだろうか、と思う。
すぐ傍にまで寄れば、子供はいくらか松寿丸より大きいのだと知れた。
歳が上なのだろうか。
けれど、細い手足と白い肌はまるでそんなに自分と変わらない様に見える。
子供に松寿丸の影が映る。
ぱちり、と片目が開いて、驚いたような顔になった。
「われは松寿丸という。そなたは妖か?」
「・・・」
尋ねても答えはない。
ただ驚いた顔だけがあった。
「・・・お武家のおうちは、妖を退治する?」
姿を見て判じられたのは分かった。
「われは確かに武家のものだが、刀はまだ持たせてもらえない。兄上は何かあれば逃げろと仰せだ。妖ならば逃げねばならん。」
「・・・妖じゃない。髪は生まれつき。目は病。移ったりしない。」
「なら逃げずともよいな。」
言えば、子供はほっと息をついた。
「疲れているのか?」
「イヤになっただけ。」
「逃げているのはそなたの方か。」
「もう帰るのいや。」
「この島の者ではないだろう?」
尋ねれば小さく顎を引いて頷いた。
「いつこの島へ?」
「昼過ぎ。」
「よもや、一人でか?!」
驚いて問えば、こっくりと頭が下を向く。
「危ないではないか!潮や渦がこの瀬戸海にはあるのだぞ?!知らぬとは申すまい!!」
「海は女神様がいるから。恵みをくれるから怖くない。それに、この辺りの海は昼は穏やかだから危なくない。」
「何を知ったようなことを!」
ぼんやりと、如何して危ないのか分からないという顔でそれは松寿丸を見てくるものだから苛立ちが募る。
「本当に、大丈夫。あっちの島の小岩の向こうに、渦が一つあるけれど、小さいものだから。この季節はいつも丑三つ時に渦が元気になるの。逆に今は一番弱い時間。だから渦に引きずられる潮も元気が無いの。夕暮れ近くにならないと潮に乗れないから却って船が動かなくて帰れない。」
長々と説明されて松寿丸は呆れた。
漸く人らしい長い言葉を聴いたと思えば、潮流についての口舌だ。
「主は船乗りか?」
すると小首を傾げて不思議な顔をした。星を散らした赤い縮緬が髪と一緒に揺れて、それが目に付く。
「船乗りには、なれない、と思う。」
「船乗りの家の子か?」
女子を船に乗せれば、海の女神が嫉妬をして船を沈める。
そのため、船には女を乗せないという逸話を思い出して問えば、首をふるふると横に振った。
「では何故にそのように詳しい。逆言ではなかろう?」
こくり、とやはりまた頷く。
「舟長は、この髪を厭わないでくれるから。」
唐突な言葉に、置いていかれる。
舟長が潮流を教えてくれるのだろうとは分かる。だが如何してかは分からない。
「相すまぬが、順を追って話せぬか?」
「順?」
「今日一番最初、舟長にあったのは何時だ?」
話を詳しく聞きたくて、隣に座り込む。
弟に話をさせると、これのように話が飛び飛びだ。
だからこそ扱いは慣れたものである。何しろ自身が、兄上にもされたことがある。
見上げるような上背なのに、この物慣れなさは何だろうか。
「一番最初?」
「そうだ。」
「・・・丑三つ時?」
言われて目を丸くした。
どんな時間だそれは。
「何故、そのような時間に?」
「舟長は、漁に出る。舵取りするから。他の人より早く来て網とか潮を見たり、準備をする。だから、離れの表の道を一人で歩く。足音が聞こえたら起きて、舟長についていく。」
離れ、と繰り返すように呟いて得心する。やはり離れがあるくらいに大きな家の子供なのだ。
「髪、こんなだから、皆怖い顔する。姉さまは慣れたって言ってくださるけど。でもやっぱり他のお側御用の人たちは怖いみたいで、離れから出たくない。」
息を呑んだ。物慣れなさは、人慣れないからか。まっすぐな気性であるだけに痛々しい。
「長は、怖い顔しない。いつも怖い顔だから、怖くない。船がでるのはお天道様が昇るまえだから、顔なんか見えないって。」
はにかんだ微笑が浮かんでいて、それは随分と心に暖かかった。
「顔なんか見えないから、お話しする。じゃないといるかどうか分からないから。でも、船が帰って来ても一緒。ちょっと眠いけどお話しする。網が坊主の日は銛で漁に出てく。そのときは、船に乗せてもらえる。」
小さく笑うその姿に、つられて笑った。だが。
「でも、他の船の人が長に言ってた。き、気味悪いの、船に乗せるなんて、船を沈める気かって・・・」
思わず松寿丸は眉根を寄せた。
「それで、そなた、嫌になったのか。」
帰るのが、と言葉にはしなかったが通じたのだろう。
こくり、と頷くと膝を立てて顔をうずめた。
自分より大きな体なのに、自分よりも小さく縮こまろうとする。
「思うに、そなたの舟長は正しいと思うぞ。」
「正しい?」
「うむ。そなたは見込みがある。船に乗るべきよ。」
きれい、と呟いた、そのあとの語尾をどうしようか迷ったのが見て取れた。
松寿丸が船に乗ったのは、これが四度目のことだった。
ただ、船で島まで渡ったのはこれが初めてだ。
なんという島だと兄が言ったか、もはや忘れてしまったが、島人が少し住んでいるだけの小島だ。
瀬戸海にはそんな小さな島がいくつもある。
兄は明日の茶の湯で、この島に湧く水をどうしても用いたいのだと言った。
この島の、山に湧く清水がそれは他のものよりも美味なのだと聞いたので。
お前もおいでと声をかけられ、嬉しくて一緒に船に乗ったのだが、山を見て、松寿丸を見遣って、兄は困ったように笑った。
道は急な獣道しかなく、松寿丸は草履の足だった。これでは山は登れまい。
兄はといえば地の者に革足袋を進呈されており問題なかったが、生憎と童のための小さな足袋は無かった。
すまないが海で遊んでおいで、此処は人も多くないから心配ないけれど、もしも怖い人がいたら逃げるんだよ?
そう言い置いて兄は山に入っていった。
松寿丸は一人、海へ向かった。
浜辺は白かった。砂の浜も小石の浜も見慣れたものだが、日輪の下の砂浜はひどく白く、怖いくらいだった。
島を一周すれば、兄が降りてくる刻とちょうどだろうと思い、歩き続けたが、単調な景色はつまらなかった。
と、その白いばかりの砂浜に、赤い色があった。
赤い着物を着た子供が、寝転がっていた。
赤い着物は高価なもので、けして寝転がって汚してもいいようなものではない。
まして、こんな小さな痩せた島にそうそうあるものではないはずだ。
妖しの類か、と疑念が湧く。
日輪の下で、疲れ果ててしまった妖怪だろうか、と。
疲れ果てたなら妖ならば怖いものではないのだから、と好奇心を押さえきれずにただ近寄る。
近づけば近づくほど、その姿は不可思議だった。
赤い着物には青と翠の花柄が散っている。
萌黄の色の帯は細かったが綺麗に織られた一品だ。縁に紫の刺繍の縫い取りまであり、手の込んでいるものだと知れる。
振袖を綺麗に皺なく広げた砂の上、寝転んでいる子供は髪が白かった。
その白いきらきら波しぶきを集めたような髪の半分が、赤い縮緬で覆われている。それで片目が隠れている。
その縮緬さえ、絞った星の細かさが砂を撒いたようで、緻密な仕事に一級品のものなのだと言葉も無しに伝えてくる。
人だとしたら、こんなところで寝転がって叱られないのだろうか、と思う。
すぐ傍にまで寄れば、子供はいくらか松寿丸より大きいのだと知れた。
歳が上なのだろうか。
けれど、細い手足と白い肌はまるでそんなに自分と変わらない様に見える。
子供に松寿丸の影が映る。
ぱちり、と片目が開いて、驚いたような顔になった。
「われは松寿丸という。そなたは妖か?」
「・・・」
尋ねても答えはない。
ただ驚いた顔だけがあった。
「・・・お武家のおうちは、妖を退治する?」
姿を見て判じられたのは分かった。
「われは確かに武家のものだが、刀はまだ持たせてもらえない。兄上は何かあれば逃げろと仰せだ。妖ならば逃げねばならん。」
「・・・妖じゃない。髪は生まれつき。目は病。移ったりしない。」
「なら逃げずともよいな。」
言えば、子供はほっと息をついた。
「疲れているのか?」
「イヤになっただけ。」
「逃げているのはそなたの方か。」
「もう帰るのいや。」
「この島の者ではないだろう?」
尋ねれば小さく顎を引いて頷いた。
「いつこの島へ?」
「昼過ぎ。」
「よもや、一人でか?!」
驚いて問えば、こっくりと頭が下を向く。
「危ないではないか!潮や渦がこの瀬戸海にはあるのだぞ?!知らぬとは申すまい!!」
「海は女神様がいるから。恵みをくれるから怖くない。それに、この辺りの海は昼は穏やかだから危なくない。」
「何を知ったようなことを!」
ぼんやりと、如何して危ないのか分からないという顔でそれは松寿丸を見てくるものだから苛立ちが募る。
「本当に、大丈夫。あっちの島の小岩の向こうに、渦が一つあるけれど、小さいものだから。この季節はいつも丑三つ時に渦が元気になるの。逆に今は一番弱い時間。だから渦に引きずられる潮も元気が無いの。夕暮れ近くにならないと潮に乗れないから却って船が動かなくて帰れない。」
長々と説明されて松寿丸は呆れた。
漸く人らしい長い言葉を聴いたと思えば、潮流についての口舌だ。
「主は船乗りか?」
すると小首を傾げて不思議な顔をした。星を散らした赤い縮緬が髪と一緒に揺れて、それが目に付く。
「船乗りには、なれない、と思う。」
「船乗りの家の子か?」
女子を船に乗せれば、海の女神が嫉妬をして船を沈める。
そのため、船には女を乗せないという逸話を思い出して問えば、首をふるふると横に振った。
「では何故にそのように詳しい。逆言ではなかろう?」
こくり、とやはりまた頷く。
「舟長は、この髪を厭わないでくれるから。」
唐突な言葉に、置いていかれる。
舟長が潮流を教えてくれるのだろうとは分かる。だが如何してかは分からない。
「相すまぬが、順を追って話せぬか?」
「順?」
「今日一番最初、舟長にあったのは何時だ?」
話を詳しく聞きたくて、隣に座り込む。
弟に話をさせると、これのように話が飛び飛びだ。
だからこそ扱いは慣れたものである。何しろ自身が、兄上にもされたことがある。
見上げるような上背なのに、この物慣れなさは何だろうか。
「一番最初?」
「そうだ。」
「・・・丑三つ時?」
言われて目を丸くした。
どんな時間だそれは。
「何故、そのような時間に?」
「舟長は、漁に出る。舵取りするから。他の人より早く来て網とか潮を見たり、準備をする。だから、離れの表の道を一人で歩く。足音が聞こえたら起きて、舟長についていく。」
離れ、と繰り返すように呟いて得心する。やはり離れがあるくらいに大きな家の子供なのだ。
「髪、こんなだから、皆怖い顔する。姉さまは慣れたって言ってくださるけど。でもやっぱり他のお側御用の人たちは怖いみたいで、離れから出たくない。」
息を呑んだ。物慣れなさは、人慣れないからか。まっすぐな気性であるだけに痛々しい。
「長は、怖い顔しない。いつも怖い顔だから、怖くない。船がでるのはお天道様が昇るまえだから、顔なんか見えないって。」
はにかんだ微笑が浮かんでいて、それは随分と心に暖かかった。
「顔なんか見えないから、お話しする。じゃないといるかどうか分からないから。でも、船が帰って来ても一緒。ちょっと眠いけどお話しする。網が坊主の日は銛で漁に出てく。そのときは、船に乗せてもらえる。」
小さく笑うその姿に、つられて笑った。だが。
「でも、他の船の人が長に言ってた。き、気味悪いの、船に乗せるなんて、船を沈める気かって・・・」
思わず松寿丸は眉根を寄せた。
「それで、そなた、嫌になったのか。」
帰るのが、と言葉にはしなかったが通じたのだろう。
こくり、と頷くと膝を立てて顔をうずめた。
自分より大きな体なのに、自分よりも小さく縮こまろうとする。
「思うに、そなたの舟長は正しいと思うぞ。」
「正しい?」
「うむ。そなたは見込みがある。船に乗るべきよ。」