潮目にて
言われた言葉に心惹かれたのか、膝に顔をつけたまま、目だけをこちらに向けてくる。
「この島に来るのは、骨が折れるのだと今朝、船頭が申しておった。だが、そなたは一人で気軽に来るほどの知恵と技量があるではないか。」
「・・・お武家は、しょうじゅまるは陸から来た?陸から来るのは潮が強くて大変だから。」
ぼんやり呟く様子に松寿丸は膝を叩いた。
「それよ。そなた島側の子供であろう。にも関わらず陸側の船足の都合も知っておる。大したものぞ。我は島側の潮の流れを知っておる船頭に会ったことがない。」
「そう?本当?」
「名に懸けて請け負うぞ。」
「でも、漁師にはなれない、けど。」
「何、無駄になるかどうかは使い道次第だ。死ぬまでの間に、一度でも役に立てば良いのだ。それに、役立て方が解らねば松寿丸の許へ来よ。正直、そなたの知恵が我は欲しい。」
言えばそれは、笑った。とても嬉しそうに、わらった。
「そなた、名はなんと言う?」
「・・・恥ずかしい。」
「・・・名を松寿丸に教えるのが恥ずかしいと?」
わけが分からない、と眉間に皺を寄せると、怒っている顔に見えたのだろう。
慌てて顔を上げて、口を軽く開いて、どもる声がする。
「・・あの、その、おせん、って姉上は呼ぶ。」
「せん、か。数の、たくさんの千か?」
こくこくと頷く。
「響きも字もすっきりして良い名だ。」
心から笑って褒めれば、おせんはパッと顔を上げて
「しょうじゅまる、は?」
「ふん、このような字になるが、読めるか?」
尋ねに応えて白砂に漢字で書けば、それは興味深そうに眺めて、わあと声を上げる。
「きれい、な。」
「きれい?」
言われた言葉が意外で思わず隣の顔を見た。
顔を上げず、じっと名を見つめたままだが、眼が輝いていた。
「松は、ずっと緑、栄え続けるお目出度い木。寿はそれを喜ぶこと。丸は船とおんなじで、みんなが一緒になってること。だから、皆でいっしょに、栄えることを喜んでる名前。いいなあ、きれい、な。」
もう一度驚いた。名をそのように言祝がれたのも初めてならば、意味を辿ったことも初めてだった。
「仮名しか読めぬかと思うたが、そうでもないのか。」
「・・・偶に、読まないと怒られる。孔子は嫌いじゃないけど、孫子はやっぱり、苦手。」
「兵法書が読めるのか!なんと嬉しいことよ!」
「・・・うれしい?」
「うむ、同じ本を読んでおれば、その本の話が出来るではないか。」
「同じ、話・・・」
「そうだ。舟長とは、海の話をするのであろう?松寿丸とは兵書の話が出来るぞ。」
「・・・孫子は、お父上がくれた。お父上とも話が出来る?」
「できるだろうよ。むしろ、そう。他の本の話は出来まい。父上の許に剛の者がおる。それは見事な丈夫だが、我が古今和歌集の話を振ると逃げてしまう。だが孫子の話や史書を振るとそれは、わからずともにこにこしておる。」
ほう、とおせんは溜息をついた。
思うところがあるらしい。
「そうして、みる。」
決意を述べる様子は健気だった。
そうして暫く共に遊んだ。
貝を拾い、ウミウシを突き、ヒトデの干からびたのを遠くまで投げ、遊びながら船が着いたところまで戻った。
兄上は船の傍、樽に腰掛けていたのが見えた。
水を用意し終えたらしい。
陸に戻るならもう少しすると良い潮が来てしまう、とおせんが言うので戻ったら、その通りだった。
船頭が船を出す準備を始めていた。
遠くからでも松寿丸が解ったのだろう。
兄上が片手を挙げている。
兄上、と声を上げて手を大きく振れば、不意に袂が引っ張られた。
淋しそうな顔で、袖を掴んでいる、赤い振袖。
ああ、これが別れになるのだと漸く思い至る。
「またいつか、会えると良いな。」
こくりと下を向いたまま頷くが、背が低いのはこちらなので表情は良く見えた。
すると、きっ、と決意の顔で上を向き、眼を合わせて口元を引き締めた。
「さらば、な。」
武家であるこちらを思いやったのか、随分と雄雄しい思い切りの良い別れの言葉に一度あっけにとられたが、すぐに破顔した。
「ああ、さらば。」
こちらが笑えば、あちらも笑う。随分と単純で、だからこそ思いの残るものだった。
ぱっと振袖が手を離し、小走りに山の木陰にかけていく。
そうだ、あれは己の容姿を厭うていたのだ。
兄上や船頭に見られるのは辛いのだろう。
「随分と仲良くなったようだね」
船まで駆けて帰り着くと、兄上が笑いながら頭を撫でてくださった。
「自分の容姿が人に嫌われるからと、あそこで見送るつもりのようです。」
「髪が白かったね。」
「生まれつきだそうです。」
「そうか。近づくのは大変じゃなかったかい?」
「浜で寝ているところに近づきました。」
「・・・浜で?良い身なりに見えたけれど。」
「松寿丸にもそう見えました。大きな家の子供のようでしたが、漁に詳しかったので、どこかの大網元の家の子かもしれません。」
「それでこの時間に眠っているなら、漁師の子でしょうよ、若。連中、暗い時間に起きて一仕事すると、朝食後には昼過ぎまでごろんと眠りますから。」
船に乗れば、船頭が出発の準備を整えながら、そんなことを言った。
松寿丸も頷いて、
「舟長に教えを請うているようで、この辺りの海域を熟知しておりました。陸に戻るならこの時間でなくば、と戻してくれました。」
と、教えれば船頭がほう、と感嘆の声を上げた。
「この島にも、自分ひとりで来たのだと。」
「それはまた、見事な子だね。」
「はい。話をしてみましたが孔子や孫子、和歌にも触れているようで、思いの外に楽しい出会いでした。」
「それは出来物ですね、ぜひウチの婿に来て欲しいもんです。」
兄上と松寿丸を乗せ、船頭が船をゆっくりと海へ押し出す。
どうやら船頭はおせんの姿を見なかったようだ。
兄上と顔を見合わせる。
「赤い振袖を着ていたように、わたしには見えたけれど?」
「はい、松寿丸にもそのように見えました。」
にこりと笑って船頭をからかえば、船頭は派手に動揺し、動きだした船に飛び乗り損ねた。
ばっしゃん、と音を立て、危うく櫂が流れるかと言うところで黙って船に乗りあがる。
くすくすと兄上と忍び笑う。
離れ行く島の緑の中、赤い振袖がずっと見送ってくれていた。