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砂塵のむこう・1

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 ありがとう、と言おうとして、躊躇した。素直に口にすることが、どうしてもできない。
「鍾会殿?」
 黙ってしまった鍾会に、鄧艾が訝しそうに声をかけてきた。
「あ、いえ・・・このたびのことは、礼を言います」
 少し考えて、違う言葉に言いかえることにした。我ながら、感謝が感じられない冷たい声だと思った。
「当然のことをしたまでだ」
 鄧艾の声が、心地よい低さで耳に響く。胸のあたりにわずかにざわめきを感じた。
「それより、鍾会殿に大事がなくてよかった」
 その声に、かすかに鄧艾が微笑んだ気配があった。
 笑った顔が見たいと思ったが、鍾会は振り向くことができなかった。


 鍾会は、自分の屋敷で医師の治療を受けていた。寝台に、脚を伸ばした格好で座らされている。
 医師は、左足首に薬草をすりつぶした物を当てて、布をきつく巻きつけている。
「これは、熱を吸って腫れを引かせる効果があります。きつめに巻きますので、足首は動かさないように。腫れが引き、痛みがなくなれば、以前のように歩けるようになるでしょう」
 脇腹の矢傷はすでに乾き始めていたが、念のためといって膏薬を塗られた。
「初期の処置が良かったですな。捻挫でも、こじらせると面倒になりますでの。ご自分でなさったのですかな?」
 治療道具を片付けながら、老齢の医師が尋ねた。
「いいえ。鄧艾殿が、すぐに冷やしたほうがよいと。矢傷も、毒や矢じりが残っていないかを調べていました」
 鍾会が鄧艾の応急処置を説明すると、老医師はしきりに感心した声を上げた。
「その方は、よくご存じですのう。確かに、矢傷は矢じりが体内に残ってしまうと厄介ですし、毒矢なら急いで毒を吸い出さねばなりませぬ」
 良い人に助けられましたな、と嬉しそうに言って、老医師は部屋を出て行った。
 部屋に控えていた従僕に、鄧艾へお礼の品を贈るように言いつけると、少し休むといって部屋から出した。
 一人になって、今後のことを考えた。この怪我で、鍾会はしばらくの間、一人で歩くこともできない。当然、宮殿への出仕もできない。今回の戦後処理は誰がやるのか知らないが、鍾会は文字通り、手も足も口も、出せなかった。
 鄧艾が中心になるのではないだろうか。
 おそらく、そうだろう。あの男は、元文官だけあって、戦場以外の仕事も器用にこなす。きらめくような才能は感じないが、小さな仕事でも堅実に仕上げるというやり方で、信用を得てきたようだ。自分とは正反対だった。
 そういうところが、鍾会の気に障った。自分が士官するようになった時にはすでに高い役職についていた鄧艾を、追い抜くことを目標としていたところがある。
 異例の速さの昇進で、鄧艾とほぼ同等の地位に上った。昇進のたびに妬みは相当買ったが、自分の能力を評価されての出世であり、鍾会自身には何等臆することはなかった。
 それが、鄧艾のことを追い抜くことがなかなかできない。能力で劣るとは思わない。自分がどんなに躍起になって評価を上げても、周囲の、あの男に対する信用や評価は、まったく変わらないのだ。
 こんな小さな怪我で、あの男に水を開けられるのが、悔しかった。
 しかも、当の鄧艾に助けられて。
 戦場でのことを思い出した。あの時、土煙の中から鄧艾のいかつい顔が見えて、ひどく驚いた。助け出され、あの太い腕に抱きかかえられ、鄧艾の首筋に顔を寄せていると、埃っぽい戦場の匂いに混じって、鄧艾の匂いがした。
 脇腹の傷に唇があてがわれた時は、心臓がどきりと跳ねあがった。体に触られるのが、とにかく恥ずかしかった。それなのに、鄧艾の胸に体を寄せているのは心地よく、隆起する筋肉に触れてみたいと思った。体を気遣われ、まっすぐに見つめられて、その気持ちと視線の受け止め方が分からず、無様にうろたえてしまった。
 私は、どうかしている。
 普段から忌々しく思っている男に助けられたせいで、妙に気になっているだけだろう。
 あんなふうに、誰かに心配されたことなんて、今までなかったから、少し驚いただけだ。
 頬に触れた鄧艾の髭の感触が、生々しく甦ってきて、心の臓のあたりが疼いた。
 それを打ち消すように、鍾会は夜具に潜り込んだ。


end
作品名:砂塵のむこう・1 作家名:いせ