アフターダーク
仕事の内容や理由は、何一つ、彼女には知らされることはない。それを綱吉の狡さだと考えることもできたが、彼女は何も言ったことがない。イーピンには綱吉を責める言葉が見付からない。そもそも、怒りを抱いたこともなかった。
その日も、薄汚れた外壁が闇に沈んだ郊外の小さな建物の一室で、彼女は少しだけ己の手と脚を振った。それだけで十分だった。そこに生きるものはあっという間に、彼女と獄寺の二人だけとなった。
そして、すべてが再び静まり返った時、彼女は初めて我に返って、己の暴発の痕を見た。
枯れた芝生の上にモノが散乱していた。ゴミのようなもの。茶碗や本や、釦といったモノたちを彼女はその小さな靴の先で少しずつ蹴った。闇に慣れた彼女の瞳は、光の少ないところでも、モノを見分けることができた。そして、下を向いたまま歩いていたイーピンは、車庫の入り口であった場所の地面の上に、転がった毛糸玉と編み棒の先にへばりつく編みかけの子供用のセーターを見つけた。彼女は、一瞬、恐怖と怒りの表情を浮かべ、足を持ち上げた。しかし踏付ける前に、彼女は足を元に戻した。そしてそれらを地面から拾い上げた。
本当に赤ん坊用のセーターだったのだろう。小さなそれは水色の毛糸で半ば程度まで編まれていた。イーピンは無表情のまま、二本の編み棒を抜き取り、一気に解いた。そしてそれをアスファルトの上に落とした。
「火を貸してください」
驚いたような顔をしてイーピンの行動の一部始終を見ていた獄寺は、一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、静かに頷いてジッポを投げた。イーピンはそれを空中で受け止めるとしゃがみ込み、アスファルトの上の水色の毛糸の塊に火を点けた。
二人は何も言わずに、白い煙を上げて静かに燃えるそれを見詰めていた。
獄寺から報告を受けた綱吉は、返事をしなかった。イーピンが何を思ってそんな行動をとったのか、彼には手に取るように分かったが、それを理解したと表明するには、彼は優しすぎた。
ただ、気が付かない振りをするほかなかった。
そんな彼を見て、獄寺は形の良い唇を歪めてボスの苦悩に胸を痛めたが、やはり何も言わなかった。
まだ君は、彼女を閉じ込めるの?
雲雀が以前口にした問いに対する答えを、綱吉は未だに用意していなかった。そうですよ、と居直ることもできず、彼はその元上級生の黒い瞳に浮かぶ非難から、目を逸らすことしかできないのだった。
ぼんやりと燃えていた毛糸の臭いを思い出しながら、次の仕事を待っていた彼女のもとにやってきたのは、彼女の新たな任務を伝える者ではなく、雲雀恭弥だった。珍しく、白い百合ではなく真っ赤な薔薇を抱えた彼は一言、挨拶のように口にした。
「無垢を失ったね」
彼女は何も答えなかった。雲雀は薔薇に鼻を埋め、その香りを満喫するように深く吸い込んだ。そしてそれをパッと白いシーツの上に投げた。赤く散ったそれが眼にも鮮やかで、彼女は思わず顔を背けた。
彼女には何を喪失したのか、わからなかった。
そもそも、何を所有していたのかも、わかっていなかった。
ただ、初めて嗅ぐ赤い薔薇の香りに、陶然とその顔を綻ばせるだけだった。