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交換日記

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「あの、帰る所すみません、ちょっとだけいいですか、あの嫌なら全然、今すぐ断ってくれていいんですけど、」
「…何ですか?このノート。」
「っあ、」



それが僕が彼のクラスの担任になって、彼と個人的に交わした最初の会話だった。
僕はこの年初めて担任を持ったばかりのまだまだ新米と呼ばれる教師ではあったが、どの生徒に対してもこんな弱気な態度を取っていた訳では決して無い。

単純に特別に、この目の前にいる生徒が、折原臨也が、怖かったのだ。

彼の入学前の評判や中学の内申は悪くはなく、成績はうちの学校、来神高校の偏差値を考えるとずば抜けて良かった。ただ一度前科があったので、志望校のレベルを落としてうちに来たのではないかという事で一応注意程度、と先輩教師に確かに言われた記憶があるがしかし、いざ入学してみると注意どころの話では無かった。

問題は同年度に入学してきた要注意生徒の平和島静雄との相性の悪さで、二人が顔を合わせるや否や自販機が飛ぶわナイフが飛ぶわ人が飛ぶわ飛ぶわ飛ぶわ。人は空を飛べたのか、文明の利器の力を一切借りず人間が天高く舞うのを初めて目撃した。

そんな常識を逸脱した現象を一介の教師達がどうにか出来る筈も無く。
警察沙汰にならない限りは退学や停学を申し渡すのもきりが無いので特にはせず、損壊した備品の弁償を請求する、クラス合同授業等で彼らのクラスを一緒にしない、移動教室ではち合わせをしない様に工夫する、等々最低限の配慮をする事が学校側の仕事に加わった。
つまり学校側は事態の改善をほとんど諦めてはいたが、しかし彼らが問題を起こさないに越した事は無い。
彼らの担任にはそれぞれ注意を促す様にとのお達しがあり、昨年彼らを担任した教師二人の内一人は憔悴し、一人は学校を去る、程度では済まず教職を辞めて精神病院に入院した。

そしてそのより悪化した症状の方の教師が受け持った生徒は、一見校内破壊の主犯に見える平和島静雄では無く、この折原臨也だった。
今自分の目の前にいる彼はその整った顔立ちや落ち着いた雰囲気も相まってとても危険人物には見えないがしかし、どうしてもその担任達の言葉が頭を過ぎってしまい、怯えを隠せない。


平和島静雄を受け持った担任は、平和島は確かに尋常ならざる膂力の持ち主でかつ尋常ならざる速さでブチ切れるが決して根が悪い訳では無く本人も自分の力に思い悩んでいる節があり、出来るものなら力になってやりたい、とまで言っていた。格好いいしなぁ、そう力無く笑う彼を見て、同じ教師として少し感動を覚えた位だった。

対して折原臨也を受け持った担任は、折原は確かに一見優秀な生徒だが完全に性根が腐ってる、本人も自覚しているから性質が悪い吐き気がする、出来るものなら殺してやりたい、とまで言っていた。俺は鳥になるんだ、そう力無く笑う彼を見て、同じ教師として少しとは言えない恐怖を覚えた位だった。


そして彼らは二年に進学し、以上の証言からより凶悪であると思われる折原臨也の担任に選ばれたのがこの僕で、つまり新米に厄介者を押し付けたとそういう事だろう、その知らせを聞かされた時はただでさえ初めての担任で慣れない仕事が増えるのにそんな殺生な、かつてない絶望に突き落とされた気がした。
しかし実際新学期が始まってみると、初めての仕事量に忙殺されながらも彼がいつ何をしでかすかと冷や冷やしていたが二週間が経過しても特に何も起きず、彼は平和島静雄に関わる時以外は表面上特に問題は無く、少し個人行動が目立つぐらいの至って普通の、いやどちらかといえば優秀な生徒と言えた。

特にこちらから交流を図らなければ、近づき過ぎなければ何とかなるんじゃないかと思い始めていた、その矢先だった。その年に派遣されてきた熱血実力派カウンセラーとやらが、問題のある生徒への対処として僕にとんでもない事を、提案という名の命令をしてきたのは。



「交換日記?俺と先生が?」

それはまた時代錯誤な、と嘲笑を漏らしながらパラパラと僕から奪ったノートを彼が捲る。
今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られるがしかし、鼻で笑われてすぐに放り捨てられるだろうそのノートを渡すに至った経緯くらいは一応説明しようと口を開けば、

「あぁわかった、あのカウンセラーか。」
「…え、」
「交換日記を始めとした様々な、特にアナログで手間の掛かる手法を敢えて使う事によって問題のある生徒を多勢更正させてきた実力派で元教師の熱血カウンセラー、でしょ。まだ担任を今年初めて受け持ったばかりの竜ヶ峰先生は彼の意見には実質逆らえないでしょうねぇ。」

ちなみに昨年初めて出版された本のタイトルは『交換日記』で4万部売れたらしいですよ、
先回りで経緯を説明され、ついでに訊いてもいない事まで教えてくれた。
その情報は特に有難くも無いし、この学校の教師と生徒、果てはそれぞれの関係者に至るまで彼は調べ尽くしているという噂が頭を過ぎり寒気がしたが、話が早い事だけは今の状況に限って有難い。
さぁ早く断ってくれと期待に満ちた瞳で彼を見れば、にっこりと笑って、完璧過ぎて逆に胡散臭い笑顔で放たれた彼の言葉が僕をまた絶望へと突き落とした。

「いいですよ。じゃあ今日中には返事書いて、明日のHRには先生にお返しします。」
「………は?」

間の抜けた声と表情で疑問と不満を顕わにして問い返せば、もう彼はノートを持ったまま背中を向け廊下を歩き始めていて。竜ヶ峰先生には興味あったんだよねぇ、そんな僕にとってもの凄く不穏な言葉を残し軽やかな足取りで去っていった。

僕はただ呆然と、明日への漠然とした、さりとて果てしない不安を抱えたまま、立ち尽くす他無かった。



こうして彼と僕の交換日記は始まった。



この時は本当に翌日学校に行きたくなくて、登校拒否児の気持ちが初めて理解出来た気がした。
当時を思い出しては苦笑してしまうが、思い出す度に少しづつ震える手が、気持ちが落ち着いていく。
時刻を再び確認するが、まだ半刻程、日記を読み返すには充分と言える時間が余っている。

ここ二年の事はよく覚えているつもりだったが、ページを捲る度に記憶はより鮮明に甦る。

作品名:交換日記 作家名:湯鳥