純情甘味料
未開封の袋が入った箱を財前の方に差し出すが、彼はそちらをちらりと見ただけで、また謙也の方に視線を戻してしまった。財前の思わぬ行動に謙也の思考はますます混乱に陥る。あれ、俺こんなにイレギュラーな事態に弱かったんか、頭の奥でそう思うが、中枢はうまく動かないまま箱とポッキーを持った両手と共に固まっている。
せめて財前の瞳がいつものように毒を含んだものであったり、からかうような色であったなら、それに対応した態度をとれたかもしれないのに、彼の瞳はそんな負の色など微塵も感じさせず、ただ謙也のことを捉えていた。財前の意図が読めない。その瞳に浮かぶ感情がせめて読み取れればいいのに。
「ざ、財前?」
軽くどもったのはもう仕方がない。声が上擦らなかっただけましだ。とりあえずこの大変嬉しいような困ったような非常事態をどうしたものか、謙也が目をしばたたかせて動けないでいると、今まで無表情でこちらを見つめていた財前は、突如唇の端を器用に上げて、悪戯を仕掛ける子供のように笑った。
「俺はこっちでええですわ」
財前はそう言って謙也の右手をとった。そちらには未開封の袋が入った箱ではなく、一本だけのポッキーが握られている。謙也がそのことに疑問を持つ前に、財前はそのポッキーに齧り付いた。
「ざ、ざいぜ」
謙也が狼狽えている間にも財前は器用に謙也の右手からポッキーを食べていく。え、なんなん、何が起こっとんの今。突然の事態に謙也の脳は処理が追いつかず、ただその光景を眺めているしかない。財前の唇が自分の手元の菓子に噛みついている、それが現実だという事実さえ信じられない。
そう長くもないポッキーはすぐさまほとんど財前の胃に収まり、あとはチョコレートの付いてない部分だけ、そうなってやっと呪縛が解けたように謙也は右手を引こうとするが、財前の両手に阻まれる。え、これ以上どうやって食べる気なん、だってこのままいったら俺の指に、そこまで考えているうちに、ポッキーを握っていた指先に、柔らかい感触がした。考える余地もない、財前の唇だ。
どういうつもりだろう、財前はこんな接触をしてくるような性格をしていなかったはずだ。むしろ厭っていて、そんなことをしようものなら罵詈雑言を飛ばしそうなものなのに、そんな彼が自分から。しかも相手は彼と同性の謙也だ。
完全にフリーズしてしまった謙也を財前が上目に窺う。やめてくれや別のシチュエーションを想像しそうになるやないか、謙也の脳内は体が動かない代わりにフル回転してはいるものの、正常な機能はすっかり失われてしまっている。
そんな謙也に呆れたのか気が抜けたのか、財前は小さくため息をつくと、固まったままのポッキーの端だけ親指との間に挟んでいる謙也の右手の人差し指に、軽く噛みついた。
「……………………!!!!」
目が限界まで瞠られたのを自覚する。体はまた動かなくなってしまった。突如人差し指に訪れた感触に、自分のコントロールがなにもかも奪われてしまったのがわかる。
え、どういうことなん、あの財前が、俺の指に唇当てたばかりか、噛んだ?別に嫌がらせとかちゃうよな、え、なんなん、ドッキリ?それともやっぱり新手の嫌がらせ?財前これじゃ嫌がらせにはならんで、むしろ俺喜ばせてまうだけやって。
思考の海でぶくぶくと溺れながら動けないでいる謙也を尻目に、財前は足下の鞄を拾い上げて、机に座って日誌を書き終えようとしている白石に「じゃ、お先っす」とだけ告げ、謙也の横を通り過ぎてドアに向かってしまった。何か言わなくては、そうは思うものの、何を言えばいいかわからず、無為に声をかけて沈黙が降りてしまうのだけはさけたいと名を呼ぶのも躊躇われ、結局何も言葉にならない。ただ財前がいなくなったことで見えるようになった壁だけを見つめる謙也に、背後から謙也を混乱に陥れた張本人の声がした。
「謙也さん、たまには自分の好きなもん、持ってきてもええんですよ」
ま、青汁なんて持ってきても俺は飲みませんけど。そう言った彼の声は、笑いを含んでいたように思う。表情が見えないから想像でしかない、けれど今のお気楽な脳内では、彼は少し可笑しそうにそれでも嬉しそうに、笑っている気がした。ポッキーが好きかという問いに『……別に』と答えたときのように、生意気で素直じゃない言動だけれども。
そのままバタンと背後でドアの閉まる音がした。財前が部室を出たのだろう。緊張が一気に解けて、謙也は力が抜けてへなへなと近くにあった椅子に座り込んだ。それでも体勢が保てず、上半身を机に突っ伏す。
どういうことだろう。確かに財前は謙也が近くにいることを許していたし、多少のスキンシップだって大目に見てくれていた。けれど今のはなんだ。あれをスキンシップと呼ぶには少々刺激が強すぎるだろう。しかも謙也からではない、財前からだ。おかしい。財前が謙也が側にいることを受け入れてくれているのは、ダブルスを組んでいるから、何を言ってもほとんど許されるから、わがままを聞いてくれるから、そうじゃなかったのか?
至近距離で視線がぶつかった、あの瞬間の財前の瞳を思い出す。嘲笑も毒もない、生意気でも天の邪鬼でもない、素の財前があそこにいたような気がする。謙也だけを見つめていたあの瞳は、謙也の瞳が至近距離にあることを自ら望んでくれたのか。財前のために菓子を持ってきていたことなどとっくに見抜いていて、それでもそれを受け入れていたように。
向かいに座っている白石が「ほんましゃーないなあ、自分ら」と言って謙也の頭を小突いた。なんやねん、とそちらに視線だけ寄越せば、白石は少し困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑っている。そして机の上に投げ出された謙也の右手の人差し指を指して、言った。
「言うたやろ、『何があるかわからんで』て」