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融解温度

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溶ける。
 何よりもまず浮かぶ言葉はそれだった。とにかく暑い、あつい、暑い。日差しが矢のように肌を射し、じりじりと皮膚を焦がしていく。うだった空気が体にまとわりつき、のぼせてでもしまいそうだ。まるで天然のサウナだ。何もしなくても汗が噴き出し、体から水分と体力と気力が奪い取られていく。
 仁王は校舎の影になった部分にふらふらとした足取りで辿り着くと、壁に背を預けてどかりと座り込んだ。ああ、あの凶器のような日差しがないだけで随分と楽になる──そんな風に溜息を吐きながら、被ったタオルの下で目を閉じる。蒸し暑さだけは変わらないが、こちらも先程頭から水を浴びてきたおかげで束の間の涼を得ることが出来ている。すぐにこの感覚が薄れてしまうのはわかっていたが、今だけはその事実すら頭から追い出して休みたかった。
 テニスの練習は嫌いじゃない。むしろ好きであるからこそ、こうしてテニス部に所属してボールを追いかけているわけだし、こんなコンクリートで目玉焼きが作れそうな天気の日にまで学校にやってきて部活に参加している。だが、夏は嫌いだ。正確には、夏のこの暑さが嫌いだ。冬は寒ければ着ればいいし、動けば暖かくなる。だがそれに比べて夏はどうだ。脱ぐにも限界があるし、動けば動くほど暑さは増すし、動かなくても暑い。本当にどうしようもない。
 そんな呪詛を脳裏で呟きながらがしがしとタオルで髪の水気を拭う。休憩時間に入って数分経ち、練習のおかげで速かった鼓動も落ち着いてきている。先程得た水による涼はすでに薄れかけていたが、とにかく直射日光の下から逃げ出せているだけ良しとすることにした。贅沢は言わない。
 ……暑いものは、暑いのだが。
 湿気のせいもあってじわじわと体を火照らせる空気に恨み節を連ねるのにも飽きてきたころ、不意に人の気配がした。俯いていた顔をのろのろと上げタオルの下から視線を向ければ、そこには他でもない、ダブルスのパートナーが立っている。
「ここに居たんですか」
 まったくもって憎らしいほどに柳生の声は涼しげだった。彼も少し水を浴びたのだろうか、前髪から雫が滴り、首にかけたタオルに吸い込まれている。表情もいつものあの涼しげな紳士と評されるもののままで、仁王は少し腹立たしい気持ちで口を開いた。
「なん、わざわざ探しに来よったんか」
「別にそういうわけではありませんよ。ただ日陰を探して彷徨っていたら、此処にあなたが居ただけです」
 柳生はそう言いながら、仁王のすぐ隣に腰を下ろす。何故わざわざ隣に、と思ったが、柳生も日陰を探してきたのだと言っていたし、わざわざ離れて座るほど柳生と仁王は気を遣うような仲でもない。柳生としても特に理由はないのだろうし、何より暑さに支配されて考えること自体が億劫で、仁王はとりあえずすべての思考の放棄を決め込んだ。
 こつんと頭を壁に付ければ、視界に青く晴れ渡った空が飛び込む。雲ひとつないその色は、随分と鮮やかだ。こんな気温で無ければ見惚れていたかもしれない。
「……暑いですね」
 ぼんやりと中空に視線を飛ばしていた仁王の耳に届いたのは、柳生の苦々しい呟きだった。そちらを見れば柳生は項垂れることもなくいつもの背筋を伸ばしたあの美しい姿勢のまま、汗で滑るであろう眼鏡を押し上げている。
「お前でも、暑いと思うんか」
「……きみは私をなんだと思ってるんですか。この天気で暑くないわけがないでしょう」
 仁王が思わず返した言葉は柳生にとっては心外だったらしく、綺麗に眉根を寄せて不服そうに言葉を返してくる。確かにそうだ、柳生だって同じ人間だし、この暑さは屋外にいるすべての人間に襲いかかっているわけで、仁王が暑さにのびているように、柳生が暑いと不満をこぼすことだって自然だ。しかし思わずそう言ってしまったのは──柳生の顔がいつのもように、涼しげなままだったからだ。
「暑いならそういう顔して言いんしゃい。そげな涼しげな顔して言われても、信憑性ってモンがなか」
 気が抜けたような視線をふらふらと浮かしながらなんとかそう言葉を紡げば、柳生はさらに気分を害したようだった。肩を軽くすくめて溜息を吐きながら、こちらを見る。
「この顔は生まれつきです。それにあなたに信憑性を語られたくはないですね」
 柳生の言い分はまったくもって正当であったので、仁王はそれきり何も言わなかった。というよりは、彼の嫌味に応酬する言葉を捻り出そうと思えるほどの気力が、暑さに奪われたせいで残っていなかった。柳生は珍しく何も言わない仁王に少し肩すかしを食らったような表情をしたが、彼もあまり何か言葉を紡ぐ余裕が無いのか、結局二人の間には沈黙が降りた。
 校舎内に植えられた木々に張り付いて居るであろう蝉達の鳴き声がうるさい。この大合唱を聞いているだけで体感温度が2~3度上がっている気さえする。何故こんなにも蝉の声は暑さを助長させるのか──夏になると毎回浮かぶ疑問がまた頭を掠めるが、深く考える気にはならなかった。
 夏だからだ。今なら、すべての理由がそれで済まされる気がする。
 隣を見れば柳生はまだ先程と同じ涼しげな表情のまま、宙に視線を飛ばしている。その先は先程の仁王と同じあの青い空だろうか。しかしその額には汗が玉のように滲んでいて、ああやはり柳生も暑いのだ、と今更なことを考えていれば、その頬を汗が滴って行くのが見える。そしてその雫がつ、と彼の首筋を伝っていくのを見た瞬間、仁王は自分の中の思考回路が更に混戦していくのを自覚した。何故それが引き金になったかはわからない。ただ雫が肌を伝うその視覚的衝撃が、仁王を混沌に陥れたことだけは事実だ。
 ああ、思考が麻痺している。暑い、あつい、暑い、あつい──柳生の涼しげな表情が苛立たしい。しかしその肌は仁王と同じように汗で濡れているのだ。柳生も同じだ。同じ生き物で、同じ場所にいて、同じものを感じている。暑い、このどうしようもない夏の暑さ。
「柳生」
 眼前の男を呼ぶ。喉がひりついたように渇いていた。休憩に入ったときに浴びるように水分を取ったはずなのに──そうどこか遠く考えながら彼から視線を外さずに居れば、柳生はゆっくりとこちらを向いた。眼鏡越しに視線が合う。
 柳生の表情が涼しげだと感じるのは、彼が表情を大きく顔に出さないことも理由として大きいが、何よりその瞳が涼しげな色を浮べているからであると、仁王は解っていた。彼がコンタクトを厭い頑なに眼鏡をかけることをやめないのは、その冷たい眼差しを隠すためであることも知っている。眼鏡を外した彼の瞳が、冷めた美しい色をしていることも。仁王はその色をとても気に入っていた。
 その瞳が仁王を捉える。ああ、相変わらずだ。味気ないガラスの向こうであの色がこちらを向いている、その事実までもが仁王の中を掻き乱していく。
 暑い、あつい、それだけが支配していた思考に入り込む色。柳生の涼しい表情、額に浮かぶ汗、首筋を滴る雫、無機質なガラス、その向こうの寒色めいた瞳。あれほどうるさかった蝉達の声が一瞬にして遠くなる。思考の海に溺れているからだろうか。否、今の自分には溺れる程の思考能力はないはずだった。だって思考はもとより暑さにやられている。
作品名:融解温度 作家名:えんと