融解温度
混沌の中に入り込んできたものに圧倒されているだけだ。そして今の自分には抗う力は残っては居ない。
仁王はこちらを向いたままの柳生の唇に、自分のそれを押し当てた。それは衝動と言うほかなかった。衝撃で無機質なガラスが仁王の柔らかな皮膚にぶつかる。まったくもって無粋な物体だと仁王は脳裏で呟いた。柳生の瞳を隠してしまうし、今もこうして自分の邪魔をする。
触れた唇は乾いていた。そう柔らかくもない薄いその唇の感触は、確かに男のものであるというのに、仁王は確かに恍惚を感じていた。
熱い。その温度が熱いと、仁王は思った。先程まで暑いあついと呟きその空気の温度を厭うていた自分は、しかしこの唇の温度を、この熱さを好ましいと感じている。体にまとわりついていたはずのうだる空気の存在が、この温度に掻き消されていく。暑さではなく、熱さが体を支配していく。
不意にぬるりとした感触が唇を襲う。柳生の舌だ、と頭が理解したときには、それはもう咥内に侵入を果たしていた。柔らかな物体が唇と咥内を荒らしていく。舌が絡め取られていく。僅かに残っていた思考までも奪われていく。ああやはり熱いと、仁王はどこか意識の遠くで考えていた。イニシアチブなどとうに奪われてしまい、ただされるがままに仁王は力を抜いてその侵入者を受け入れた。
まるで溶けてでもしまいそうだ。先程のような暑さにではなく、柳生の唇が、舌の熱さが、柳生の存在が、仁王の内側を溶かしていく感覚。
ぐるぐるとうずまく混沌の中、ただ唇と咥内の感触と温度だけが仁王の中でリアルだ。ああ今自分は柳生とキスをしている、今更のようにその事態に気づき、仁王は可笑しくなって口端をあげる。彼と自分はただのダブルスのパートナーのはずだった。なのに何故この行為にこんなに違和感がないのだろう。暑さのせいで頭がやられているせいだろうか。この熱さに酔わされているのだろうか。それとも──
酸素が足りなくなって意識がぼうと霞みだした頃、ようやく唇が解放された。ぼんやりと瞼を押し上げれば、柳生の唇が目に入る。唾液に濡れるそれは生々しく、それが柳生と唇を合わせていたのだということを如実に教えていたが、仁王はその事実をただ受け入れていた。
言葉は出なかった。頭はまだ霞がかったままぐるぐるとまわっている。暑い、熱い、あつい、溶ける。様々な感覚が一緒くたになっていた。けれどあの熱さだけははっきりと覚えている。
「仁王くん、」
目の前の男は既に息を整え終わり、またあの涼しげな表情に戻っていた。仁王が唇をぶつけた衝撃でずれたはずの眼鏡も定位置に戻っているし、蝉の鳴き声も相変わらずうるさいし、体にはうだる空気がまとわりついていた。ああ暑いな、と仁王は思った。
けれど柳生は、その涼しい表情に、仁王が見たことのない少し人の悪そうな笑いを唇に付け加えて、言った。
「あつい、ですね」
柳生のその言葉に隠された本当の意味を知るときはきっと遠くないと、仁王はなんとなく感じていた。それは確信めいた予感だった。
けれどその答えは今は形になることはなく、仁王はただ柳生の言葉を繰り返すように、あつい、とだけ呟いた。