相互浸食
朝の気配に意識が浮上する。ちいちいと鳥のさえずりが耳に届き、カーテンから漏れる朝の陽が瞼越しに視神経を撫でるその小さな刺激に、仁王は眠りの淵から引き上げられた。
重い瞼をこじ開ければ見慣れた、けれど自分のものではない部屋の内装が目に入る。眩しさに眼を瞬かせ、もう一度強く目を瞑れば、仁王はいつもの瞳を取り戻し、今度こそはっきりとした意識をもって部屋の様子を眺めた。
持ち主の気質を表すように、部屋はいつも綺麗に整えられており、物自体も少ない。初めて招かれたときは、あまりに予想と違わぬ様子の部屋であったので「つまらん」と零して、随分と呆れられたことを覚えている。部屋が纏う空気はそのときと変わらぬままで、仁王という侵入者を招き入れてもその一種の潔白さのようなものが漂っている。
潔白──仁王はその単語を思い浮かべて嗤った。たしかにこの部屋の雰囲気はまだ潔白さの片鱗を残している。だがその中に我が物顔で居座る自分はどうだ。身に纏う物はシーツだけの状態でベッドに横たわり、その体にはあちこちに朱い跡を浮かばせている。腰は重い倦怠感を訴えていて、今日一日はあまり言うことを聞きそうになかった。つまりは、そういうことだ。潔白という美しい概念とはほど遠い爛れた行為の名残。
この部屋で行為に及ぶことは、仁王に様々な感慨を植え付ける。
あの紳士と呼ばれる男が、その名に相応しい整えられた彼の部屋で、自分のようなひねくれた男を抱く。彼が男である自分に、発情する。間接キスすら厭いそうな潔癖そうな男が、自分のあらぬ場所を愛撫していく。紳士であったはずの彼が、ただの雄の獣にかわる。その事実が、彼が仁王を好いていることを何よりも雄弁に語っていた。あの男が自分を愛している。あの男が抱いていたステレオタイプを破壊してまで仁王を選んだという事実が、仁王の心を大いにさざめかせるのだった。
仁王は自嘲の笑みを口端に浮べると、ごろりと体の向きを変えた。昨日は終えた後崩れ落ちるようにそのまま眠りに落ちたはずなのに、体は綺麗に清められている。よく見れば昨日性急に脱ぎ捨てた自分の服はベッドの脇に綺麗にたたまれていた。こういうところまで「紳士」だ、と仁王は先程とは違う意味で小さく笑う。それは何か暖かいものが呼んだものだった。体の倦怠感は拭えないが、不快感は無かった。
部屋の主は姿が見えない。仁王の隣のシーツも温度を失っていて、随分前に彼がそこを離れたことを教えている。仁王はこういう翌朝に男に先に目を覚まされることが少し気に入らなかったのだが、残念ながら彼より先に起きることができた試しは一度もないのだった。それは体の負担の問題でもあるであろうが、純粋に仁王が朝に弱く、男が早起きを習慣としているような人間であると言う根本的なものが原因として大きいのだろう。そのことには簡単に思い至ったが、仁王は未だに諦めきっていない。
ふわあ、と大あくびを零す。カーテンから漏れる光は眩しく、今日が晴天であることを教えていた。今日は珍しく部活がない。だからこそ昨夜無茶が出来たわけだが──ともかく今日は自由に過ごすことができるのだ。このまま二度寝を決め込んでも許されるかもしれない。彼は文句を言うだろうか、それとも自らの所業のせいだからと苦笑いして許容するだろうか。
そんなことをぼんやり考えながらカーテンを──正確には見えぬはずのカーテンの向こうを眺めていれば、扉が開く音が聞こえる。それと同時に、「おや、」とちいさな呟きまで降ってきた。間違えようがない、部屋の主のご帰還だ。(そもそもこの部屋に入ってくるのは彼以外にあり得ない。だって彼の家には昨日から彼と仁王しか居ない。)
「起きましたか」
柳生はそれに続けておはようございます、と微笑みながら言った。いつものようにきっちりと整えた身なりで、その手に乗せられた盆には二つグラスが乗せられている。少し汗をかき始めているそれらのうちのひとつをテーブルに移し、もうひとつのグラスを手に持って、柳生はこちらに歩み寄った。
「喉は乾いてませんか?」
差し出されたそれを断る理由はどこにもなく、仁王は「もらう」とひとことだけ告げてグラスを手に取った。ひんやりとしたガラスの感触が気持ちいい。そのまま一息に中身を飲み干すと、乾いていた喉が生き返っていくようだった。グラスを持ち直し、濡れた唇を乱暴に片手で拭っていると、柳生がそっと仁王の手からグラスを取って盆に戻しに動く。
至れり尽くせりとはこのことだ、と仁王はその動きを眺めながら思う。礼を言うタイミングを逃してしまったが、柳生は気にもしていないらしい。そのまま自分のグラスを手にとって一口含むと彼はすぐにそれをテーブルへと戻し、柳生はこちらに振り向いた。
「今日は少し早いお目覚めですね」
時計は今が8時過ぎであることを教えている。予定の無い休日となると昼近くまで寝ていることもある仁王にとっては、少し早い起床時間だ。そのことを暗に揶揄されて、仁王は少しへそを曲げた。さっき二度寝してやろうかと思ったことなど勿論言う気にもなれず、代わりににやりと人の悪い笑みを口端に乗せて、反撃するように言う。
「誰かさんのおかげでの、腰がいとうてよう眠れん」
柳生は眉を上げておや、という表情をしたのだろう(相変わらず眼鏡のせいで離れていると表情が少し窺いにくい)。しかしそのあといつものような爽やかさに少しの悪戯心を加えたような表情を漉いて、柳生は悪びれもなく笑う。
「昨日離してくれなかったのは、きみの方だと思ったんですが」
「……っ!」
思ってもみなかった返答に切磋に言葉が出ない。確かに昨日、仁王は柳生の身体の上に乗り上げて続きを促した記憶がある。そのことははわりと鮮明に覚えていたので、ぐうの音も出ない。結局仁王はしたり顔でこちらを見る男に反駁できないまま、眉根を寄せてむすりと黙り込んだ。
柳生はたしかに普段の振る舞いが「紳士」と呼ばれるに相応しいような男であるということは、よく近くにいる仁王にはようくわかっていることであったが、同時にその「紳士」の仮面が剥がれる時があることも身に染みて知っていた。たとえば、こういうときの揶揄するような悪戯めいた言動。それに行為の最中の彼の言動や仕草。そういうときの彼は雄であったし、捕食者のような欲を隠しもせず纏わせていたし、時には嗜虐的ですらあった。柳生は紳士の仮面の裏にとんだ獣を飼っている。
獣──そうだ獣だ、と仁王は自らの体に残された跡を見ながら思う。肌に浮かぶのは朱い所有印と、うっすらと残された歯形だ。仁王も行為の最中我を忘れかけて柳生の肩口に噛みつくようなこともあるが、柳生は愛撫の時点でよく仁王の肌を噛んだ。それは甘美な痛みをもたらすように計算されたような絶妙な力加減で、跡だって1日経ってしまえば消えてしまうほどの物であったから、仁王は愛撫の一環なのだとは思っていた。が、やはりこうして翌朝光の下でそれを確認すると、仁王はその行為に柳生の執着めいたものを感じる。
ひらりと腕を振り、纏う布から抜け出して自らの体を確認している仁王に、柳生は訝しげに声をかけた。
「どうしました?どこか痛みますか?」
「痛みゃせん、」
重い瞼をこじ開ければ見慣れた、けれど自分のものではない部屋の内装が目に入る。眩しさに眼を瞬かせ、もう一度強く目を瞑れば、仁王はいつもの瞳を取り戻し、今度こそはっきりとした意識をもって部屋の様子を眺めた。
持ち主の気質を表すように、部屋はいつも綺麗に整えられており、物自体も少ない。初めて招かれたときは、あまりに予想と違わぬ様子の部屋であったので「つまらん」と零して、随分と呆れられたことを覚えている。部屋が纏う空気はそのときと変わらぬままで、仁王という侵入者を招き入れてもその一種の潔白さのようなものが漂っている。
潔白──仁王はその単語を思い浮かべて嗤った。たしかにこの部屋の雰囲気はまだ潔白さの片鱗を残している。だがその中に我が物顔で居座る自分はどうだ。身に纏う物はシーツだけの状態でベッドに横たわり、その体にはあちこちに朱い跡を浮かばせている。腰は重い倦怠感を訴えていて、今日一日はあまり言うことを聞きそうになかった。つまりは、そういうことだ。潔白という美しい概念とはほど遠い爛れた行為の名残。
この部屋で行為に及ぶことは、仁王に様々な感慨を植え付ける。
あの紳士と呼ばれる男が、その名に相応しい整えられた彼の部屋で、自分のようなひねくれた男を抱く。彼が男である自分に、発情する。間接キスすら厭いそうな潔癖そうな男が、自分のあらぬ場所を愛撫していく。紳士であったはずの彼が、ただの雄の獣にかわる。その事実が、彼が仁王を好いていることを何よりも雄弁に語っていた。あの男が自分を愛している。あの男が抱いていたステレオタイプを破壊してまで仁王を選んだという事実が、仁王の心を大いにさざめかせるのだった。
仁王は自嘲の笑みを口端に浮べると、ごろりと体の向きを変えた。昨日は終えた後崩れ落ちるようにそのまま眠りに落ちたはずなのに、体は綺麗に清められている。よく見れば昨日性急に脱ぎ捨てた自分の服はベッドの脇に綺麗にたたまれていた。こういうところまで「紳士」だ、と仁王は先程とは違う意味で小さく笑う。それは何か暖かいものが呼んだものだった。体の倦怠感は拭えないが、不快感は無かった。
部屋の主は姿が見えない。仁王の隣のシーツも温度を失っていて、随分前に彼がそこを離れたことを教えている。仁王はこういう翌朝に男に先に目を覚まされることが少し気に入らなかったのだが、残念ながら彼より先に起きることができた試しは一度もないのだった。それは体の負担の問題でもあるであろうが、純粋に仁王が朝に弱く、男が早起きを習慣としているような人間であると言う根本的なものが原因として大きいのだろう。そのことには簡単に思い至ったが、仁王は未だに諦めきっていない。
ふわあ、と大あくびを零す。カーテンから漏れる光は眩しく、今日が晴天であることを教えていた。今日は珍しく部活がない。だからこそ昨夜無茶が出来たわけだが──ともかく今日は自由に過ごすことができるのだ。このまま二度寝を決め込んでも許されるかもしれない。彼は文句を言うだろうか、それとも自らの所業のせいだからと苦笑いして許容するだろうか。
そんなことをぼんやり考えながらカーテンを──正確には見えぬはずのカーテンの向こうを眺めていれば、扉が開く音が聞こえる。それと同時に、「おや、」とちいさな呟きまで降ってきた。間違えようがない、部屋の主のご帰還だ。(そもそもこの部屋に入ってくるのは彼以外にあり得ない。だって彼の家には昨日から彼と仁王しか居ない。)
「起きましたか」
柳生はそれに続けておはようございます、と微笑みながら言った。いつものようにきっちりと整えた身なりで、その手に乗せられた盆には二つグラスが乗せられている。少し汗をかき始めているそれらのうちのひとつをテーブルに移し、もうひとつのグラスを手に持って、柳生はこちらに歩み寄った。
「喉は乾いてませんか?」
差し出されたそれを断る理由はどこにもなく、仁王は「もらう」とひとことだけ告げてグラスを手に取った。ひんやりとしたガラスの感触が気持ちいい。そのまま一息に中身を飲み干すと、乾いていた喉が生き返っていくようだった。グラスを持ち直し、濡れた唇を乱暴に片手で拭っていると、柳生がそっと仁王の手からグラスを取って盆に戻しに動く。
至れり尽くせりとはこのことだ、と仁王はその動きを眺めながら思う。礼を言うタイミングを逃してしまったが、柳生は気にもしていないらしい。そのまま自分のグラスを手にとって一口含むと彼はすぐにそれをテーブルへと戻し、柳生はこちらに振り向いた。
「今日は少し早いお目覚めですね」
時計は今が8時過ぎであることを教えている。予定の無い休日となると昼近くまで寝ていることもある仁王にとっては、少し早い起床時間だ。そのことを暗に揶揄されて、仁王は少しへそを曲げた。さっき二度寝してやろうかと思ったことなど勿論言う気にもなれず、代わりににやりと人の悪い笑みを口端に乗せて、反撃するように言う。
「誰かさんのおかげでの、腰がいとうてよう眠れん」
柳生は眉を上げておや、という表情をしたのだろう(相変わらず眼鏡のせいで離れていると表情が少し窺いにくい)。しかしそのあといつものような爽やかさに少しの悪戯心を加えたような表情を漉いて、柳生は悪びれもなく笑う。
「昨日離してくれなかったのは、きみの方だと思ったんですが」
「……っ!」
思ってもみなかった返答に切磋に言葉が出ない。確かに昨日、仁王は柳生の身体の上に乗り上げて続きを促した記憶がある。そのことははわりと鮮明に覚えていたので、ぐうの音も出ない。結局仁王はしたり顔でこちらを見る男に反駁できないまま、眉根を寄せてむすりと黙り込んだ。
柳生はたしかに普段の振る舞いが「紳士」と呼ばれるに相応しいような男であるということは、よく近くにいる仁王にはようくわかっていることであったが、同時にその「紳士」の仮面が剥がれる時があることも身に染みて知っていた。たとえば、こういうときの揶揄するような悪戯めいた言動。それに行為の最中の彼の言動や仕草。そういうときの彼は雄であったし、捕食者のような欲を隠しもせず纏わせていたし、時には嗜虐的ですらあった。柳生は紳士の仮面の裏にとんだ獣を飼っている。
獣──そうだ獣だ、と仁王は自らの体に残された跡を見ながら思う。肌に浮かぶのは朱い所有印と、うっすらと残された歯形だ。仁王も行為の最中我を忘れかけて柳生の肩口に噛みつくようなこともあるが、柳生は愛撫の時点でよく仁王の肌を噛んだ。それは甘美な痛みをもたらすように計算されたような絶妙な力加減で、跡だって1日経ってしまえば消えてしまうほどの物であったから、仁王は愛撫の一環なのだとは思っていた。が、やはりこうして翌朝光の下でそれを確認すると、仁王はその行為に柳生の執着めいたものを感じる。
ひらりと腕を振り、纏う布から抜け出して自らの体を確認している仁王に、柳生は訝しげに声をかけた。
「どうしました?どこか痛みますか?」
「痛みゃせん、」