相互浸食
痛みゃせんが──と仁王が言葉を続けそうな気配を残して口を閉じたので、柳生はグラスを置いたテーブルの側から仁王のいるベッドへと足を向けた。ベッドの上に座り込む仁王の前に立つと、自然と仁王を見下ろす形になる。仁王はまた先程のようにひらりと腕を振って柳生の前にかざすと、悪戯めいた表情で柳生を見上げ、艶やかに唇を歪ませた。
「いつかお前さんに喰われてでもしまいそうじゃの」
腕にまで及んだ薄く赤みを帯びる歯形を見せつけるようにして言えば、柳生は仁王の言わんとしていることを悟ったらしかった。表情は変わらなかったが、すこし彼が途惑っているような気配を纏わせたので、仁王は少し面白くなってクク、と低く笑う。
貪るように行為に溺れている最中の柳生の表情を思い出す。普段の取り澄ました紳士の顔より、仁王の前でだけ見せるあの獣のような柳生の表情の方が仁王は気に入っていた。紳士の顔も獣も全部ひっくるめて柳生だ、それはわかっている。紳士を装うくせに獣の欲を陰に潜ませる、その柳生の矛盾めいた在り方が、仁王が彼を好く理由のうちのひとつでもある。自分などよりよっぽど詐欺師だと、仁王はよく思ってはひとりわらっている。
「喰いたいか?俺んこと」
嗤うようにして訊けば、柳生はとうとう困惑めいた表情をして仁王の隣りに座り込んだ。先程の軽口のようにまた言葉で反撃をくらうかと身構えてもいた仁王は少し拍子抜けして、隣で頭を垂れる柳生を見る。前髪がさらりと重力に従ったせいで、彼の表情は伺えなくなってしまった。しかし彼はそろりと腕を上げたかと思うと、白いシーツの上に落ちていた仁王の左腕をとり、そして薄く残る朱い歯形にゆるりと指を這わせた。
「……そうなのかも、しれませんね」
柳生の声は、彼には珍しくぎこちないような、途惑いを含ませた色をしていた。軽口のつもりだった仁王は、柳生のその態度に少し面食らう。何も言えず利き手の左腕を柳生に預けたまま、柳生がゆっくりと朱い跡を指先で辿っていくのをだた見守ることしかできなかった。少し顔を上げたおかげで垣間見えた柳生の表情は、苦笑いというのが一番近いような、複雑な表情をしていた。
「時々あなたをこの身に取り込んでしまえたらと思いますよ。あなたを抱いてからなおさらそう思うようになりました」
獣の呟きを、彼は紳士の声色で零す。歯形の上をなぞる柳生の指は優しく、少しくすぐったかった。まるで贖罪でもするかのような優しさだった。仁王はその告白に目を瞬かせたあと、柳生の指の感触だけを感じるように少しだけ目を伏せ、しかしすぐに口端を歪めて笑みを形作り、詠うように囁いた。
「喰えばええのに」
その呟きは柳生にとって予想外だったのか、彼は勢いよく俯いていたその顔をあげた。途端合う視線。仁王の目はいつもの飄々とした表情のときのように細められていたが、その奥の琥珀色の瞳は嘘をついてはいないことを、柳生はすぐに認めたらしかった。それでも意図が掴めないと未だ困惑のまま仁王を見つめる彼は、紳士の仮面でもなく、仁王を貪る獣でもなく、ただのひとりの男の姿であると、仁王は思った。
「喰えばいいんよ。俺は構わん」
「仁王くん」
「柳生が俺を喰わないなら、どのみち俺がお前を喰らうまでじゃ」
咎めるように柳生は仁王の名を呼んだが、仁王は構わず続けた。何を途惑うことがある、仁王は柳生が捕食者であることを認めている。そうでなければ、自分の入り組んだプライドの檻を崩すことを、男の下に組み敷かれ貪られることを、許すはずなどなかった。そして仁王は、柳生からステレオタイプや潔白さや紳士の仮面を奪い、柳生の一部であるはずのものを内側から壊していくことで、柳生を喰らうように侵している。
今更だ。自分たちは、互いに貪り貪られる関係にある。柳生が仁王という存在を喰らうことをためらう必要など、どこにもありはしない。同じ理由で仁王が柳生を侵略することを咎める権利も、誰にもないと仁王は思っていた。
柳生は何も言わなかった。彼は視線を自らが指先で辿っていた跡に落とし、それをもうひと撫ですると、そっとその場所から手を離した。浮いた掌はしばらく空中を彷徨い、結局は仁王の右腕と同じようにシーツの上に力なく落ちる。仁王は突如離れた柔らかな感覚を追ってしまいそうになったが、それを行動に移すのは躊躇われ、そのまま柳生の動きを眺めていた。
沈黙が降りる。
仁王は腰回りに落ちてしまったシーツをたぐり寄せて、肩からかぶせるように羽織る。衣擦れの音が部屋に響いた。柳生は先程の体勢のまま動かず、ただ落ちた掌に視線を落として何か考えているようであった。
仁王はひとつ息を吐くと、ひとまず自分の身なりをなんとかしようと腰を浮かしかけた。しかしその瞬間走る鈍痛に少し眉をひそめ、動きを止めた瞬間、柳生がその腕をとる。そしてもう一つの掌で愛おしむように仁王の肌を優しく撫でたあと、彼は口を開いた。
「仁王くん」
「なんじゃ」
柳生の声は明瞭だった。仁王がいらえを返せば彼はまっすぐにこちらを見る。その瞳は静かだったが、仁王はその奥に男と獣の二つの存在を認めた。
「あなたが許したとしても、私はあなたを私のうちに取り込むことなどできないでしょう」
柳生はさきほどの困惑など微塵も感じさせぬような口調で言い切る。
「あなたをこの身にとりこんでしまえば、私はあなたに触れることが出来なくなってしまう」
そう言って柳生はもう一度仁王の左腕を撫でた。仁王にとってはテニスをするために一番大切な体の部位だ。その場所を無防備に晒すことを許していることの意味を、おそらく柳生は仁王とつきあい始めてからすぐに気づいていたはずだった。その腕に噛みつくことを咎められない意味も。
「…だから代わりに真似事を?」
「くだらない支配欲のなれの果てです」
噛み跡を晒しながら仁王が問えば、柳生は苦笑いしながら答える。そして彼は恭しいとすら言える仕草で仁王を抱き寄せ、その首筋にも浮かぶ朱い跡に優しく口付けた。吐息がくすぐったくて仁王が身をよじろうとすれば、その隙も無いように強く抱きしめられる。
「あなたをすべてを支配したいくせに、あなたに触れられなくなることを怖れている、ただの傲慢で臆病な男の戯れです」
柳生はその低い美しい声でその言葉を吐き出した。抱きしめられているせいで仁王からは柳生の表情を窺うことは出来なかったが、仁王はその声色から彼が浮べているであろう苦い自嘲の笑みを脳裏に描き出す。ああまったくもって柳生らしい、そう思って仁王は息を吐く。獣の欲に抗い、けれど抗いきれない、ひとりの男だ。
柳生が仁王を抱きしめる力は強く少し息苦しかったが、仁王はそれを快いと感じた。それは恋慕の情がそうさせるのか、彼にこうして逃げられぬように抱き込まれることを悦んでいるせいなのか、それとも彼の内側を自分の存在が侵食していることを喜んでいるせいなのか、感覚を狂わせているものの正体が仁王にはわからなかった。あるいはその全てのせいなのかもしれなかった。